10月18日日曜日からの施餓鬼供養の施主様には、自宅での供養方法を16日の午前中にメールで送っております。
届いていないという方は、恐れ入りますが早急に当方にメールを下さい。
合掌
10月18日日曜日からの施餓鬼供養の施主様には、自宅での供養方法を16日の午前中にメールで送っております。
届いていないという方は、恐れ入りますが早急に当方にメールを下さい。
合掌
人のために誠実であらんとすることは大事だが、残念ながら世の中や人というものを知るに連れて変わってしまうことがある。
しかし、自己のために誠実な人間であろうとする人は容易に変わらないように思う。
戒と言うものもそういう考えのものと思う。
思うに人がどうだからと逐一態度を変えるところに戒も修養もないだろう。
悪事だろうが名前さえ出ればそれで満足と言う誤った承認欲求の典型。
そういう人間はいる。
この人もその類だろう。
さらにこういう人間は支援したり煽ったりする人間の責任も問うべきだ。
もっともそれ以前に悪質なユーチューバーは投稿禁止にすべきだろう。
https://readyfor.jp/projects/shorinji
奈良大神神社の神宮寺、大御輪寺に祀られていたご本地仏が、この国宝の十一面観音様です。
三輪流神道と深い関係があります。
お志のあるかたは、上記サイトをご参照ください。
天台は顕密双修である。
そこで密教ではもっぱら無量寿如来修観行供養儀軌によって組み立てられた修法を拝むことが多い。
無量寿如来は阿弥陀如来と同じでもっぱら念仏信仰の論拠である大無量寿経と言うのもすなわち阿弥陀信仰を説く顕教の代表経典である。
密教であるから一般の人にはなかなか修せないのでそこは念仏の方が万人等しくという点でははるかに勝れた手だてであることは否めない。
しかしこの密教儀軌にも便法はある。
儀軌の最期にオンアミリタテイゼイカラウンという小咒を10万遍唱えれば、なんと目の当たりに阿弥陀仏を拝見し決定して極楽往生するという。
これは密教修法しなくてもできる。
10万遍も唱えるならば大無量寿経の念仏往生はわずか十号だから念仏の方が上じゃないか?と言う人があがればそこはいかにも愚か者のいいそうな考えだ。
大無量寿経にはその往生には五逆一闡提、誹謗正法は除くという。
そんな悪いことをしてる人はそうそういないだろうが・・・この五逆一闡提とかはこの世の罪とは限らない。前世であればわからないのだ。
無量寿儀軌の心は大咒である。
これを一遍唱えれば十悪四重五無間罪を除き、あらゆる罪障を滅ぼして戒品清浄となるという。
しかし、密教では儀軌通りなら大咒を100から1000辺唱えることになる。
最低でも100辺唱えなさいと言う。それが密教の修法上のルールだからだ。
結構大変だ。
だがそうは言っても私は実はどうだからどっちの方が上とか下とかいう気はさらさらない。
かく言う無量寿儀軌も大無量寿経を絶えずに読めと言っているしね。
両者に矛盾があればそんなことは言うまい。
要はこれは人が阿弥陀仏に信を届けられるか否かと言うそれだけのことだ。
数の少ない多いではない。念仏にも真言そのものに大した違いはあるまい。
シッカリやった感覚が欲しければ大咒1000遍とか略咒10万遍もいいだろうし、イヤイヤ所詮人の努力のおよばぬところと心底本願を頼む気になれば念仏10回でもいいだろう。
親鸞さまも「いずれの行もおよびかたき身なれば・・・」といわれている。
そういう体験がないとなかなか本願は拝めないのではないかと思う。
だから昨日今日誰かにふきこまれて耳学問で知ったような奴に「念仏だけが本当の救いなんです。他は全部駄目なんです、」と喋々と言われても、「ああそうかい。そいつはよかったね。じゃアンタはそれやんなよ。」でお終い。ちゃんちゃらおかしいわ。
ただ実際は念仏10回とはいうものの浄土門の熱心な人は10回どころか四六時中唱える。
念仏10回で往生できるというありがたさを味わうことこそが信仰の本質だからそこは何遍でもいいのだ。と私は思う。
10回以上となえては不信と言うことではあるまい。
そう考えれば念仏も真言も所詮阿弥陀仏に心を運ぶための道具に過ぎない。
さらにいえば密教だろうと顕教だろうとそのための道具だ。
「法とは筏のようなもの 岸に渡ればいいだけ。法自体に執着しても意味ない。」と金剛般若経に説かれている。
どっちでも好きな方でいい。勝劣なし。
私はそう思う。
私は自分の家の仏壇では阿弥陀の小咒をよく唱えるようにしています。
11月18日は先の長吏猊下忌明け法要に随喜のため滋賀県に出張しております。
したがいまして11月はお護摩はありません。
施餓鬼供養を希望される方の中で、たまに、どなたを供養したら良いのかわからないという質問があります。
基本は一番身近なところからです。
つまりご先祖様です。
日本の霊的文脈においては、祖霊崇拝が重要であります。もちろん儒教の影響なども大きいのですが、宗教を越えて、ご先祖様と私たちというのは密接な関係にあるのです。
私の恩師は何か神仏に祈願したとしても、まず先祖を通して、そこに至るのだと言っておりました。祈願をして先祖が出てこないとそれは成就しないとも。
私はこれを自分の心の中にある先祖意識との関わりだと思っています。
ご先祖への施餓鬼供養、お盆や春秋の彼岸などの供養、感謝行により、その先祖意識とのつながりや循環が良くなってきて、それが自分の環境へと波及していくのです。これを先祖のご加護があると言います。
故に、例えば長男だけがご先祖を供養していれば万事事足りるのではありません。
そして先祖供養を続けているうちに、これは供養した方がいいと気になる方が出てくることがあります。その場合は個別によく供養することが大切です。
ご先祖供養の体験談をいただきましたので、ご紹介します
大森義成 先生
先日はお彼岸の供養ありがとうございました。
教えて頂いた感謝行一週間目を迎えた頃、
息子から連絡があり、良い結果に無事解決したそうです。大森先生を信頼している息子に感謝行の事を話し、[きっとご先祖様が力を貸してくださったんだね!]と。主人が亡くなった以降、いつも孤独、不幸だと思っていた私がその時は幸せな気分でした。
忙しいので暇な時にやっている映画を見ると「つかの間、娯楽」はよくあります。
映画自体目的の外出はほとんどない。ことのついでにやってるものを見るんですね。
ジャンルも何もなく。
だから見てからなんじゃこれ?というのもある。
実はこの映画はある映画見てあまりに詰まらないんで出てしまい…時間もてあまして代わりにすぐみられるものとしてみました。まあ、アニメはその絵がいやじゃないなら見る方です。
見た印象は前のはやめてこっちで正解。
「大洗海岸」発の中学3年生男子 コーギー(あだ名)がサーフィンにはまって世を目ざす物語。
この映画三部構成、今日から二部も開始。
一部よかったので二部も見た。三部も見たい。
昔のスポーツものと言うとなんか天下はワイがとったるわい~!みたいなギラギラしたのが多い。要するに自分以外はライバルの世界。
野球サッカーのような団体球技はともかく特に個人競技の漫画はそんなのが多かった。
このアニメの題材のサーフィンというスポーツも個人競技だけど、ただそれ以前いサーフィン好きな若者の強い連帯感が土台になっている。
いろいろな同世代のサーファーが友人として出てくる。
ライバル意識もすべてその土台の上のこと。
ライバルが消えてほくそ笑むというようなのは微塵もない。
スポーツと言うのはそうでなくちゃいけないというものがわかる「アニメ」で気持ちいい。
昔の少女漫画のバレエものなんてライバルが、プリマドンナのトゥーシューズにガラスの破片を入れ込むなんておそろしい場面もありました。
そういうのはスポーツの心と程遠い。
えらそうに言ってますがそもそも私は文系でスポーツは縁がない。
中学、高校も皆がサッカーだ野球だ今度はテニスだというときに、ひたすら心霊現象や妖術の研究していたくらいですから。
やったのは古武術、中国拳法くらいですが、あくまでおのが身の安全をはかるために必要性から学んだものでスポーツだという意識はゼロです。みんなで頑張るなんて心はそこにはない。孤の世界です。
逆に競技ではないので漫画のように卑劣なことをしてライバルを倒すというのもない。
いろいろな意味でスポーツでの要素はない世界でした。
でもスポーツの生む連帯感は他では手に入らないだろうね。そこを考えると若い人にはスポーツはすべきものだなと思いますね。
古代ポリネシア人の水上移動手段がルーツと言う以外は、私はサーフィンのことはサの字も知らなかったけど明るくとてもいいアニメだと思う。
お勧めしたい。
驚いたのは歌も声優の人たちが全部歌っています。見てくれよりも先に声が身上の方たちなので下手なアイドルグループより上手です。