吉野山 稲荷神社が呼んでいるかも・・・
今日の夢、タクシー運転手からお守りもらってみたら吉野山稲荷とかいてある。
吉野山の稲荷といえば導稲荷ということか。
そろそろいかないといけない。天河、吉野もう三年いっていない。
吉野山導稲荷は御醍醐帝ゆかりの稲荷。
やはり私は稲荷系かなあ…と思う。
守護神と勝手に思っている弁財天は稲荷の本地だし。宇賀神(ウカノミタマ)をもっと拝むべきかな。
拝んで顔を良くする祈祷?
昔、顔がまずいので恋人ができないという男性が来た。
相談者「僕、顔まずいんで彼女できないんです。拝んだらできますか?」
私「さあ・・・わかりませんけど、たとえ、できても続かないでしょう」
相談者「なぜですか?何かに呪われているんでしょうか?」
私「そうじゃない。いや・・・そういってもいいかも」
相談者「誰に呪われているんでしょうか?」
私「それね。あなた自身だと思いますよ。」
相談者「え!?私自身?」
私「あなたねえ、なんでも顔のせいにしていませんか?」
相談者「そんなことないです・・・じゃあ聞きますが先生は僕の顔をみてイケメンだと思いますか?」
私「そうねえ・・・思いませんね。」
相談者はいったん息をのんだ。「やっぱり! そうじゃないですか?」
私「私があなたを美男子だと思わないということと彼女ができないことは何も関係ないです。」
相談者「どういうことです。」
私「顔なんか主観の問題でしょ。それに私的に見てハンサムじゃ無いかもしれませんが別に悪い顔とまでは言っていない。」
相談者「そうですか?・・・そんなの詭弁ですよ。実際僕はもてませんし。。」
私「あなた子犬や小猫をみたら可愛いと思う?」
相談者「・・・まあ、一応は」
私「ガマガエルやトカゲはどう?」
相談者「嫌いにきまってるでしょ。そんなもの好きな人いないでしょ。好きな人はヘンタイです。」
私「私は好きですよ。」
相談者「え~っ?どうしてですか。」
私「それとおんなじでしょ。そもそも、どうしてなどないのが好きということだ。何好きだろうとひとによりけり。顔だけでいうならあなたが好きという人だっていないとはいえない。
だが問題はお顔じゃないですね。
何でもご自分の顔のせいにして自分を磨かないからじゃないのですか?
問題は容姿だからどうにもならないとかいって。
私に言わせれば言い訳がましく、ひがみ根性に満ちた人間より爬虫類の方がよほど好感持てますね。」
相談者「それ、ひどすぎませんか!」
私「そらそら。そのひどいと思うのはあなたが私の価値観に左右されている証拠です。ただの喩えです。自分の価値観を持ってください。人の好悪などどうでもいい筈。
あなたは出会う人、すれ違う人が皆あなたの顔を素敵だと評価しないと気がすみませんか?」
相談者「そんなことはないですが・・・。」
私「拝んで顔が変わるわけないでしょう。
だったらあなたの理屈なら拝んで彼女ができるわけない。
顔は拝んでも変わらないんだから。」
相談者「やはり変わりませんか?聖天さまって無理なお祈りも聞いてくれると聞いていますが…違うんですか?」
私「あんたバカですか?拝んで容姿がアイドルや人気スターみたいになるわけがない。
本当にそうしたいなら。こんなとこに来ないで美容整形にいきなさい。
でもそんなことしてもきっとあなたはもてないよ。たぶん恋人もできません。」
相談者「なぜそう思うのですか?」
私「あなたが整形しなきゃいけないのはあなたの顔じゃなくその思い込みです。それがただされないなら結果はおなじです。」
結局、御祈願はしないということでお帰りになりましたが・・・容姿に関わらず楽しい思いやりに満ちた人の周りには人が多くいるものです。
人気の一流クラブのマダムさんも必ずしも絶世の美女じゃない。
だけど愛嬌がある。
男性なら優しさや思いやりがある。カヴァーしてくれる包容力がある。
そこに気が付かぬ限りこの人は悩み続けるでしょう。
面の皮一枚をはなにかけて人気者などになれるわけがない。
人様に好かれるわけがない。と思いますけどね・・・
何か出るかな?猫たちの思惑
何か出るかな?出るよ。出るよ。きっと出るよ。
半天婆羅門の教え
背中わせの双身毘沙門天像。
一方は毘沙門天、もう一つは半天婆羅門という悪神。
毘沙門天が善の修行をしたとするなら彼は悪魔の修行者。
でも二人は兄弟です。
同じ血を分けた存在。
善悪は対立するから背きあうけど実は表裏一体。
だから半天婆羅門と毘沙門天は縁は切れない。
私たちも悪無くしては存在しない。
そしてもちろん善無くしても生きられない。
悪と私たちは常に背中合わせに生きている。
毘沙門天ももう一人の自分なら半天婆羅門も同じ自分だ。
だが煩悩といい志といい、大元は「生きる心」に変わりはない。
生きる方法を誤れば悪となる。それだけのこと。
その生きる心こそ善悪を超えた存在。
悪は悪ならず 善は善ならず
本有の大日だ。
生きることを措いて善も悪もない。
死ぬることも同じだ。
生あって死がある。死があるから生がある。
2022年 施餓鬼万霊供養受付開始
八月十四日(日) 施餓鬼万霊供養 法要は13時から
ご先祖、亡き親御様、恩人、恩師、水子さん、ペットあらゆるお供養が可能ですが、何方も三界万霊のお供養をつけることでお施主様の功徳が倍増いたします。
お施餓鬼は密教では増益法でもあり自らの心も身もも豊かにする法です。
お地蔵様のお御影付き
供養は普通供養 一霊 三千円 特別供養 一霊 一万円です。
水子様が複数の場合は一霊ごとでお願いします。
もしくは特別供養で「○○家水子霊位」でお供養なさいますようお願いします。