いかにもテレ朝らしいね。節操ゼロ。
反日当たり前。偏向番組もお手の物。
アニメ映画「犬王」では無惨な死に方をした平家の人々やその配下の亡霊をその物語を歌や舞で語ることで、なぐさめ、成仏させていくというストーリーでした。
それにより犬王は人らしからぬ姿から人へと変わっていく。
この物語の最後の最後に足利将軍家の前で踊り歌い、それでも成仏しないもの、話が拾えていないものは誰か…認識できていない存在がいるという問題がおきます。
犬王ほど異形の者になることはなくても目に見えない因縁をまとう人は多い。
私に言わせればそういう意識しない霊、心に登らぬ霊をあまねく救うのがまさに「三界万霊」のお供養なのです。
その意味で三界万霊のお供養はきわめて大事です。
これをしておけば誰が迷っているのかなど、必ずしもピンポイントで霊能者にわざわざ指摘してもらう必要はないのです。
なぜか。
三界万霊とは言ってもくくりがないだけで自らを中心に縁のある霊から順にお施餓鬼の功徳をうけることはもちろんだからです。
そこで12日まで三界万霊のご回向のみ追加を受けます。
人生には腹立たしいことに見舞われることが少なくない。
怒るというのは一番処理しにくい感情です。
だって自分がまちがっているという認識はないですから。
それ自体はさほどのことではなくても「くたばってしまえ!」などという強い感情にみまわれることだってある。後でよくよく考えたらそれ自体はそこまで怒ることかな?と自分でも不思議に思うことすらある。
でも実はこの怒りは根があるのです。
心理学では過去の体験が尾を引くとそこに「投影」と言って重ねてしまう傾向があります。
例えば秋葉原で17人の人を傷つけ殺してしまった加藤受刑者。死刑になりましたが、この人は派遣先での不都合が重なってその都度怒りを膨らませた。
ついには世の中が全部が敵だと思ったからあの事件を起こした。
何の合理性もないですが、これは人にありがちな間違った習性でのなせるところです。
心理学の世界で「投影」といいます。
概ね父母に起因する情報ですりこみになっているのだといいます。
例えば厳しいお父さんに「お前みたいなものはダメだ。役立たずだ。」と言われ続ければその嫌な体験は基盤になる。
そこに色々お父さんに言われたことと同じようなことと感じればその体験をを人生で拾って積んでいく。それで臨界点までくれば大爆発する。
加藤受刑者もそうです。
派遣社員の悲哀が重なった…というより重ねてしまったんですね。
でも根はもっと深い筈。
加藤受刑者はやったことは無辜の人まで殺したのですから許されないが気の毒といえば気の毒です。
でも私はそういう気の毒はやったことの減刑の理由にならないと思っている。
法律は社会の安全とその維持のためにあるのですから。
安倍元総理を射殺した山上容疑者も同じ、母への怒りが統一教会からさらに安倍さんにまで拡大して彼は殺人者になった。
これも気の毒といえばそうだが許されることではない。
こうした怒りは心理学では幼少期の体験が基盤といいます。
でも仏教はそうは言わない。
無始の罪業と言って、本来私たちは生き物として根に怒りを持っています。
怒りの感情自体は誰に教わったわけでもないでしょう。
教えなきゃ怒らないわけじゃない。
だからそういう「幼少期の云々」はアンカーでしかない。
無始の怒りの姿は密教では荒神さんに表されます。
だから荒神さんは怒っている。
理由なんかない。無始の怒りですから。
そういうものを我々も心の奥に持っている。
「原初の怒り」
荒神さんは私たちの原型、怒りの塊なんですね。
誰が良いとか悪いとかは措いて、まず怒りを除くことを仏教では大事だという。
そこに気づけば大忿怒の荒神様も「笑えば中台八葉の尊」と言ってそのまま仏になれる。
怒りは燎原の火のようなもの。
たとえ怒るべき理由はあっても放っておくと秋葉原の通り魔のようなことすらおきる。
それが怒り。感情ですからことの是とか非とかとは別です。
で懺悔文を唱えます。
我昔所造諸悪業 [がしゃくしょぞう しょあくごう]
皆由無始貪瞋痴 [かいゆむし とんじんち]
従身語意之所生 [じゅうしんごい ししょしょう]
一切我今皆懺悔 [いっさいがこん かいさんげ]
どっちがいいの悪いのは言わない。
そういう状況に陥っていること自体が懺悔すべきおのれの業報だからです。
他人は関係ない世界。自分の業の問題。
私が学生時代から出入りしていたお寺はこれを言いながら一万遍五体投地の礼拝したら護身法伝授をしていました。
そこまでしなくても腹が立ったら何回か実践してみたらいいでしょう。
仏の側に立ち返れます。
宝篋印陀羅尼書写の皆様にはお写経をいただいた後から請求書を送ると申しましたが、一応今回、請求書をお送りしていますが、写経と同時にお送りいただければ結構です。
枚数によって変更しますが一応皆さま全員一枚分としてお送りしています。二三枚送られれる場合はお振込み時に加算願います。
番組では二之湯国家公安委員長が2日の会見で「平和の祭典という趣旨で名前を貸した。統一教会がどういう教義を持って布教活動をしているのか、さっぱり分かりませんけど、お付き合いの一環として名前を貸した」と語ったことを紹介。これを受けてMCの宮根誠司は「名前を貸したのは脇が甘い」とキッパリ。さらに「『さっぱり分かりませんけど』って、現在進行形の国家公安委員長として怖くないですか!?」と問いかけた。
公安の長ともあろうものがこのザマでは、スパイは出入り自由だったり、元総理が射殺されるのもなるほど当たり前ですね。
愚かとしか言いようがない。どう言いつくろっても無能歴然。
私でさえどんな団体か知っているのに公安委員長が「平和の祭典」?知らなかっただと!?
今の役職は室町時代の大膳大夫や政所執事と変わらないね。中身のない官職名のみかい?
直ちにあなたはハラを切るべし(職を返上すべし。)
13人については関連団体のイベントへの出席や、講演を行ったケースもあったということです。藤田幹事長は「意図せずに広告塔のように扱われていたということについてはちゃんと受け止めて、今後悪い影響が国民に出ないように線決めをして、実行していくのが大事。一方で、一律に宗教法人すべてと距離を置くことを禁止することは適切ではないと思います。党としてトラブル団体との距離のとりかたを整理したい」としています。
「一律に宗教法人すべてと距離を置くことを禁止することは適切ではないと思います。」は大事だと思う。
宗教全てが統一教会のようなカルトと一緒にされるのはおかしい。
まさに糞も味噌も一緒の考えでいかにも左翼勢力が考えそうなことだ。
日本もカルト集団を指定する法律が是非欲しい。
広域指定暴力団のようなものだ。