金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

初冬の岩手紀行 座敷童と食道楽の旅?

今年は良くうかがう小野寺さんのあさひ薬局。

人事異動などで是非一度再祈願ということで伺いました。

初日は祈願前に座敷童のお宮へ こちらは座敷童の出るお宿だそうです。

今はやっていない感じ。

裏手の神社 右が童さん。左は稲荷神。

私が拝んだ感じは童様は大昔、この辺の豪族の子供さんだったようですね。

歴史的にそういうものがしっかりしているんだろうなあ…そうでないとそういう霊体は残らない。忘れられれば消えていく。

 

そもそも、このあたりは金田一温泉と言って金田一一族発祥の土地。かの金田一京助先生の歌碑がお宿のお庭にあります。

 

晩は松川温泉でご馳走責めでした。毎度お世話になる峡雲荘。いいお宿です。お湯も熱くていい‼ご亭主は社長の先輩だそうです。

御祈願の感じはやっぱり漢方相談している場所の方がいろいろ念が溜まるんだなあって感じでいたね。皆さん体の心配ですからね。それは当たり前でしょう。

以前にもある薬局さんのカウンターにこれこれこんな人見えると言ったら、こころあたりあるけど難病の人で死んじゃったかも・・・という話でした。

念は残るんだね。

その意味でいえば薬局も行者と同じで楽じゃない。

でも以前にもまして溜まっている、難しい方が多いのか。御客が増えたのか。

保険調剤専門の方は淡々とやっているせいかそれはない。念を残さずお薬もらうだけの人が多いのでしょうね。

 

 

翌日は支店の御祈願終わってまた安比のインターコンチネンタルホテルで会食

こちらは小野寺社長お好みの揚げアナゴの和え物、おいしいです!

 

 

食べる話ばっかりで恐縮ですが、今日は弟子が遊びに行っていませんので晩はこれ

岩手のお弁当 SL銀河 釜めしです。

            

 

殺生とは

生き物を殺すのが殺生なら病原菌を薬で殺すのはどうなんだろうという質問。

結論から言えば仏教のいう殺生の概念には当たらないと思う。当時の概念に病の本が細菌とは思われていない。

厳密には生き物を殺すのがそのまま殺生ではない。

それをいうなら野菜だって生きている。

では殺生とは何かだがまず有情といって感情の働きのあるものをいうのだと思う。

昆虫はどうか?喜怒哀楽はわからないが捕まえようとすれば逃げるのはやはり情動はあるというべきだ。

涅槃図で釈尊の死にあつまる生き物がその辺を代表していると思う。

華厳経では仏陀を殺すのが一番罪が重く、ついで人間、動物となっている。慈悲や愛の深いものを殺すほどにいけないと考えるのだろう。

犬やネコなどを虐殺するのはもってのほかだ。仏教者なら食べなくていい生き物を興味本意に食べるなどもどうかと思う。

私たちは殺さないで生きられない。生命すべてがそうだ。なればこそ無用に殺してはいけないのだと思う。

「覚りてなお情け有り」

菩薩を「覚有情」と訳す。

「仏心とは大慈悲これなり」と大無量寿経にある通りだ。

その仏になろうというのが菩薩。

金剛経の大家・濱地天松居士は「悟りてなお情け有り」とよませた。

情けというのは煩悩だ。

情が立ちがたいのが人。慈悲も見方を変えればただの煩悩。

その煩悩をバッサリできれば阿羅漢のような聖者になれる。

だが大乗菩薩はそうではないという。

 

菩薩に最も大事なものは慈悲だ。

 

煩悩をバッサリやれば慈悲も同時に消える。

わが師にも修行の一番初めに「煩悩はね。断つんじゃないんだ。

渋柿の渋が干したら甘くなるようにするんだ。それが修行。」と教えられた。

当時はなんだかさっぱりわからなかったが、今は少しわかるような気がする。

 

大乗の道へ行こうとするもの、怒り・悲しみ・好悪・喜び…皆その裏には慈悲があると考えるべきだ。

無惨な行為を見れば怒り、衆生が死ぬれば悲しみ、衆生とともに喜び楽しむのが人の道。

すべて、諸行無常・諸法無我と割り切って流すのが羅漢道

諸行無常・諸法無我とは知りながら人の道を離れぬのが菩薩道。

 

悟りてなお情け有り。

 

 

 

八大竜王の九字

八大龍王の九字というのがあるそうだけどあなたはそれ知ってるかと言われた。

ユー・チューブなんかでやっているの見たけど、まあ。基本的にはオーソドックスな九字ですね。文句をつける気はない。別にいいんじゃないかと思う。

龍イラストイラスト/無料イラストなら「イラストAC」

ただ、私の場合は竜という字を九字で書いていく法。八大竜王とはいわないけど、そういうのはある。

竜のしっぽがどっちに巻くかで口伝がある。

抑々竜は十画の文字だから臨 兵 斗 者 皆 陣 列 在 前 の九文字と最後に一つ別な字がはいる。

一寸一部の働き

昔の話だが難しい病気を祈って首尾がよかったりすると、他のケースでも「大丈夫ですよ。任せて下さい。」と言いたくなるものですが、そういうことを口にする時に限って全くよくならない。

判で押したようにほかのことも結果は出ない。

それでそういうことは言うもんじゃないなと思った。

ただ拝ませてもらうほか何もないなと思った。

いまでもそうだ。私自身が誇れるものなど何もない。

言ってみれば法の傀儡のようなものかもしれない。

 

でも考えてみればなんでもそうだろう。

医者は治療しても治るのは体自身の働きだ。

種をまいて丹精しても稔るは作物自身の働きだ。

いってみれば祈ると言ってもそんな程度が限界だ。

 

大分あとになって、霊狐さんから声がかかるようになってからも「お前のできるのは本当にせいぜい一寸一部の働きでしかないのだと知れ。わずかな験を鼻にかけて決して奢るでないぞ。」とたびたびキツク釘さされた。

最近ますます祈るという行為をするほかは私には何一つできることなどないのだと実感してわかってきた。

 

大分前だがある患者で二か月ばかり祈ったら「実は・・・ご祈祷達者だというある先生がいまして・・・、そちらに頼んでもいいでしょうか?」というので

「どうぞどうぞ。」というと「講員は止めませんので・・・」という。

「いやいや、それじゃ先方の先生に失礼ですよ。ご遠慮なく、どうぞやめてください。いい先生を紹介してもらってよかったですね。」ということで余所にいらしたが、それからすぐに亡くなった。

この人は民間医療術の人だったせいか末期癌ということをひた隠しにしていた。

亡くなって初めて癌だときいた。

私が祈っても最後は最終的には末期ガンはなおらず死んだろうが・・・焦るあまりあっちの先生こっちの先生と尋ねあるいたのだろう。

そういうことをして助かった人は聞かない。