90cmは大きいですね。
本当の仏教を知りたくないですか?
20代終わりのころ仏教書籍のコーナーで本を見ていたら、私より少し上とみられる女性がこちらをチラチラ見ている。
そのうち「あなた、本当の仏教を知りたくないですか?」と声かけてきた。
なんの新宗教か宗派かわからないけど、昔はそういうのが多かった。
どこの宗教だかは知らないけど、「ヤッパリ、おいでなすった!」と思った。
「いえ、別に知りたくないです」というとちよっと引いて
「え、でも仏教に関心あるんでしょ。」
「ありますが自分で研鑽しておりますから結構です。」
「でもね、もしその教えが間違っていたら・・・どう思います?」
「どうも思いません。」
「え?でもそれじゃ真理追及じゃないでしょう。」
「真理など追求していません、私は仏教の知識を調べているだけです。本に真理だの悟りだの書いてあるとは思わない。あなたからも何も教わりたいとは思いません。」
「なんででしょうか!?」
「だってあなたどう見たってシロウトでしょう。」
ここに至って向こうもキレて
「は?お坊さんとかじゃなきゃ真理は知らないとでも思っているんですか?それがそもそも間違っていますよ。」
「そうとは思わないけど、あなたは何にも知らないと思う。」
「なんでわかるんですか?」
「そういう見識ある人がこんなところでウロウロして、勧誘なんかしないと思うからです!」
もう、この上はめんどくさいので去ろうとしたら向こうが去って行った。
昔は似たようなことはよくありました。
真言だと往生できない?
真言が好きで「オン アミリタテイゼイ カラウン」と言ってお参りしていたら「それでは極楽に行けない。南無阿弥陀仏にしなさい。」という人があったという。
違いがありますか?という質問
インドに南無阿弥仏という漢字の言葉はないから、「南無阿弥陀仏」でないといけないなら、浄土三部経の出たインドではだれも極楽に行けなかったことになりますね。
インドならば「ナモ・アミターバー」という言葉でしょう。
でも聞いたらこの人浄土系の方だそうでそれは和尚さんに言われたそうです。
「個人の信仰としては自由ですが、そういう法義の場では衆儀に逢わすのが礼儀だからそこは南無阿弥陀仏でいいでしょう。逆に南無阿弥陀仏だとダメということもないので 」といっておいた。
萬世、掘ル事、南可連(ナカレ)持寶庵さんのブログ
悪狐、出てしまったかな・・・
宗教は人間の本能。
さらに画期的な発見は、ネアンデルタール人は表象的な思考ができたかもしれないというものだ。いくつかの遺跡から、埋葬の儀式で用いられたと思われる装飾されたワシの鉤爪(かぎづめ)などが出土しており、高度な思考と伝統の証拠だと言われている。
宗教は人類とともに発生している。人間の本能だ。
サルとヒトの違いはそこにある。
霊的原因のお話
最近、精神疾患のお悩みが多い。
医療機関や心理療法士でなく私を尋ねるのは、そこに目に見えないものの介在を疑うからだろう。
言い換えれば霊的原因を想定しているのだろう。
このところ多いのだが、立て続けに二件いずれも祈祷はしていない。お話だけさせてもらって。それでも一応の満足を得られて帰られたと思っている。
目に見えないものを否定するのか?と言えばそこはトンでもない。
逆だ。
目に見えないものは実は健全だという人だろうと多かれ少なかれ影響している。
そのへんにいくらでもいるから。
特にマイナーな意識に陥っていればマイナーな奴らはうようよまとわりつく。
だが逆にそれは原因ではなく、マイナス意識が核となって呼び寄せてしまったケースが多い。
病や問題は其の前にすでに存在している。
でも私のようなところへきて期待される方の中にはそれが祟りや悪霊の影響が原因で祈祷で一掃できると思うからこそと言うこともあろう。
スカッと一掃!
だが、残念だがそれはまずほとんどありえない。
まずそういう祈祷して何とか出来る類のものは、昨日や今日にわかにおかしくなったというような場合だ。
そこに必ずきっかけはある。
自分の側のアンカーもある。
対するになって久しくずっと慢性化している精神疾患にそう言う憑依などの原因を求めてもまず無駄だ。
それは主にそのひとの生育に関わったり家族関係に関わる問題だ。
霊的なことを言えば先祖や身内の供養は有効な場合はある。
病気でも何でも時間かけて出てきた問題は時間かけてとりくまななきゃ解決しないのが普通だ。