「もし衆生あって福徳を欲する者もしくは衆人に愛敬せられんと欲する者もしくは仏子あって堂塔を造立せんと欲する者、一切の所望を決定せんと欲する者、四百四病を消滅せんと欲する者はまず我に帰依し當に供養すべし。
我がこころ荒立つときは人のために軽慢罵詈(めり)(きょうまんめり)せられ、福慧少なく、財物を他人に盗み取られ終に貧窮無福の身となる。皆これ我が所作なり。」
一切の願望のある者は私を拝み供養せよ。そうでなく我を怒らせれば人に蔑まれ貧窮の身となると言っています。神様というよりまるで悪魔のようですがもしこの荒神というものが皆さんの心そのものだとしたらどうですか?
そうなると意味は大きく変わってきます。つまり、まずわが心を慈しみ尊ばないものはいかなる願いがあろうとも、ついには人に侮られ貧しく身の置き所がなくなるというのです。実は荒神様はほかならぬ我々の心の奥にある「第八阿頼耶識」という潜在意識の神格化なのです。
「第八阿頼耶識」は潜在意識の極めて深い部分で我々の運命を製造する根源のような所です。それが誰しも心の奥にあるのです。仏教では天地の創造主的な神様がいて適当にそれぞれの人間の運命を決めているという考えはありません。また善悪によって賞罰を与える存在もありません。もしそれを神といったり創造主というならこの荒神がまさにそれです。
さきほど心の深い領域と云いましたがこちらはその存在を意識しなくても向こうは即座に我々の考えに反応します。だから私というものをつまらないものだと軽視したり自らどうせ碌なことにならないと軽蔑したりすればそれを阿頼耶識はそれをまともに受け取って荒神を怒らすことになり良いことは一つもないという結果を呼びます。つまり、そんなつまらない、価値のない自分が成功したりするのはありえないという働きを起すのです。そうなると結局はすべて無駄になるようにプログラムが組まれ起動します。そうでないと「駄目な自分」と矛盾するからです。
不幸から抜け出せない一大原因はいいかえれば「自分なんかどうせ・・・」という心のありかたに大きく関わっています。でも、本来は誰しも自分は大切だと思っているはずです。そのはずなのになぜ、「自分なんて」と思うのでしょうか?