自分は大切だと思いながらそれができないのは我々には「元品の無明」というものがあるからです。これこそが根本煩悩です。この元品の無明が姿となったのが実は恐ろしい荒神様のお姿なのです。荒神が怒っているのは元品の無明を我々が了知できない為であります。
荒神さまは如来の化身であり、ある時は明神、那行都作、多婆天王、毘那夜迦、正了知など護法神王、十八神王などの姿を取りますが実は本体は皆同じ方だというのです。いろいろな聞きなれない神様の名前が出ましたが、その中で毘那夜迦というのはいわゆる聖天様のことです。聖天様は諸天随一のご利益が優れた尊天として有名ですが同時に怒らせたら大変に怖い神様だと昔から言い伝えられてきました。
これは実は聖天様と荒神様とが一体の神様だからです。
聖天様と云えばインドのガネーシャ神であり、インド料理店などには招き猫のようによくゾウの頭をした愛敬のあるお像がチョコンとおいてあります。またインドでは道端にお地蔵様のように建てられていて大変ポピュラーで怖いというイメージはほとんどないようです。ガネーシャはヒンドゥ教の三大神のひとりシヴァ神の息子であり、本来は障碍神ビナーヤカを束ねる主領ですから怖いと言えば怖いのですがが、インドでは実際にはむしろ何事を始めるのにも障碍神たちが邪魔しないように一番最初に祈られる最も親しみやすい神様とされているようです。
ガネーシャと聖天様はもともと同じ神様ですが、両者の違いはこの荒神としての信仰があるか否かが一番大きいでしょう。つまり、日本では聖天様の信仰は一種の荒神信仰なのです。だから聖天様は頼りになるけど、いい気になって際限なく貪ったり、聖天様をなめてタカをくくっていると必ず強烈なしっぺ返しが来ます。
そこで聖天様の信仰は「そういう怖い神様はどうも・・・。」といって敬遠する人や中には「神様だったら、もっと優しいのが本当だろう。そもそも罰を当てるなんておかしいよ。」などと批判的なことを言う人までいますが、それもこれも我々人間の手前勝手な理屈や思い込みに過ぎません。口先はどうあれ、賢いがゆえにすぐに目ざとく狡いことを考えがちな一面があるのが赤裸々な我々の姿です。時にはそこに容赦ない鉄槌を降して正してくれる鬼教官の様な存在も必要なのです。