金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

後藤健二さん殺害に思う

痛ましいことに後藤健二さんがとうとう殺されてしまいました。
なぜイスラム国はこうした無辜の人間まで敵として殺さなくてはいけないのでしょう。
宗教には人間解放の宗教と人間を制約する宗教があります。勿論どんな宗教にもその両面はあります。「教え」と云うのがある以上はしてはいけないこともあるわけですから。そして教えのない宗教はあり得ません。
それを無視しては宗教の独自性は存在しえないことになります。
しかしその教えがきわめて制限的であれば人は不自由になり、不幸になります。
でも信者にとっては神の教えですから守らないといけません。こういう宗教では神は極めて厳しい存在です。信者はひたすら天罰や地獄を怖れてて生きていかないといけないのです。
勿論イスラム教が全部そういう風ではないでしょう。しかしイスラム国はじめ過激なイスラムの宗派では女性は顔を見せてはいけない。女性は教育を受けてもいけない。歌舞音曲もいけない。等々色々日本では考えられないような制約があります。
そして異教徒は敵です。クルド人の多くが信じるヤジディ教の信徒などは生かしておいてもいけない存在の様です。
実際、トルコ国境の攻防戦でイスラム国の人間が彼らは奴隷としてのみ存在が許されると言っているのを聞きました。


昔、古代バビロニア帝国は中東随一の強大な国でした。当然当時のことですからお互いが戦争をそのして領土を広げます。でも面白いのは戦争して他国の人も取り込んだら首都のバビロンにはその国の人々の信じる神様の寺院がたてられたのです。
バビロニアの宗教を信じなくてはいけないとなどとはいわなかったのです。その様な押し付けはお互い敵意をさらに募らせ、宗教が人間同志の溝を深くしてしまうようからでしょう。
このように民族の宗教はそのままに大切にしたのはバビロニアの人々は領土を支配しても心の自由までは支配できないとよく知っていたのでしょう。

紀元前のことですが現代のわれわれは何教徒であろうと無宗教であろうとこの心に学ばないといけません。
イスラム国を野蛮だというアメリカやヨーロッパも歴史的なことを云えば他国を攻め滅ぼし、その民族の宗教や文化を否定して同じく自分たちの宗教までも押しつけてきた国々です。いいかげんにそういうことはやめないといけないのではないでしょうか。