今日は大変うれしいお話がありました。愛知県の住職さんで私が理趣分をお伝えした人から末期癌の方が御祈祷に来られたのちに癌が消えたという報告があったそうで、その旨のお電話を頂きました。
なんと、今ではもう元気で草刈りなどされているということでした。
このあいだも同じようなことで拙寺に御礼参りをした人がいました。
癌と云うのは只難病なのではなくきっと何か仕組みがあるのでしょう。そう思い当たるような節もないではありません。
御祈祷の扱うケースでは必ずしも最も難しい病とは思いません。
命にはかかわらなくても、もっと治りにくい病もあります。
儀軌の約束事ですので、もちろん、在家の方にも申し上げられませんが、それより大事なことはそうした霊験を機にきちんと信仰を持つことです。
難しい祈願が叶っても信仰に全く無関心な人もいます。そういう方は御礼参りにさえも見えませんが二度はチャンスが来ないものです。一昨年も同じ病のケースがありましたが結局御礼参りに来ないままにしていて、翌年再発したといってきました。病気になったらまた祈禱を頼めばいいんだと思っている人もいます。
そういう人はむごいようですが頼まれても二度はご祈祷しないことにしています。
とりわけ「難病の祈願をお願いしたいだが信仰はしたくない。」という方は断るか、もしくは「助けるのは今回だけです。」とはじめから明言しています。
もちろん、信者になったからと云って必ず助かるわけではありません。
しかし、助かろうとするのに距離を措こうとするようではその人の中では矛盾があるので御祈祷はそれだけ分難しくなります。
これは行者にとって大きなも大きな負担です。
その後、再度の祈願をお断りした方が亡くなったとなどという報告も頂くことがありとても残念には思いますが断ったのを後悔したことは一度もありません。
後悔すべきは私ではなく亡くなった御本人だと思うからです。
再発は罰でもなんでもありません。
もしご祈祷しなかったことと関係があるとするなら、それは御本人が折角得た仏縁を自分で手放した結果なのです。
御祈祷は医療やお薬ではないので再度、同じことをしさえすれば同じように助かるとは限りません。要するにチャンスなのです。
医療でさえ厳密には同じだともいます。癌を切ってなおしても、再発したらまた手術すればいいのかといえば必ずしもそうとばかりはいえないでしょう。
また、同じ理屈から他人が助かったとはいっても誰でも御祈祷しさえすればおしなべて算数の答えのように同じ結果が出て助かるわけでもありません。
ましてや、私はうちに来れば癌が治るなどと云うことをいいいたいのではありません。
なによりも私がしているのは取次だけで治るのであればそれは御仏の御縁が頂けたのです。結果として治ったという方がいるだけです。
これは病気だけでなくいかなる御祈願にも言えることです。
ですから仏縁こそを本当に大事にすべきなのです。
真実、「無上甚深微妙法、百千万劫難遭遇」です。