金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

福を焼き捨てる

毘沙門天は当院の本尊に向かって左脇侍になっていますが、この観音、不動、毘沙門と云うのはもとは天台から起きた形で慈覚大師が不動尊を勧請しそのようにされたのが初めの様です。もっとも慈覚大師さまは向かって右に安置されたようですが、オリンピック表彰台のように二番手が右に来ますから、普通はどうしても明王部の不動様が来るようになります。
いずれにしても密教系のお寺では観音三尊として多い形です。
天台流の解釈では不動尊密教の守護神、対するに毘沙門天顕教の守護神と云うことらしい。

この毘沙門天は大変な福の神で日に三度ありあまる財宝を焼き捨てると言います。
其の居城も有財城というくらいですからお宝が次々湧いてくるのでしょう。
でも「毘沙門天王功徳経」によればこうした無尽の福でも頂けるのには条件があるとされています。
まず、「三帰五戒を持し」といいますから正式には受戒を受けて仏教徒になっていないといけません。
まだあります。父母孝養、功徳善根、国土豊饒、一切衆生、無上菩提の五つの願いのどれかに該当しないといけないというのです。
「ウ~ン、なんだか難しいな。そんなんじゃなくて自分は〇〇を買うお金が欲しいだけなんだけど・・・。」と思うかもしれませんが、これは実はとても大事なことです。
たとえばたまたま大きなお金を手にしてもこれらがないと、かえって災いになることがあるからです。

勿論、ここにあるような例えば国土を豊かにするというようなことを一般に考えてみてもダイレクトにはできにくいでしょう。
しかし、そこは国土を愛する心で物事をすればいいわけです。国土は我々の住む日本の国そして自然環境です。これらを愛する心が有るかないか。ここが大事です。
父母孝養、功徳善根、一切衆生、無上菩提と云ったほかの条件もそうした心を持つことが大事なので、必ずしも祈願がダイレクトにこれらに該当する必要はないと思います。たとえば商売にしても良い品を必要な所へ持っていくというのが商いの基本です。そうすれば一切衆生の為にもなります。
その心を持つことです。
また、結婚を祈願することも父母を安心させたいという気持ちがどこかにあってもいいでしょう。こう考えれば何を願うともこれらの心にかなうならオーケーなわけです。
考えてみるとこれらは全て自分だけの祈願で終わるものではないのです。

ですから「ほんの少しで良いから、どうぞ私に福を恵んでください。もうちょっとだけほんの少し豊かになればいいのです。お願いしますよ!」などと云うのは到底叶いません。
一見謙虚なようですがそこには自分の分の福しか願っていないのがアリアリだからです。仏教でいう「貪り」はお金の額などには全然関係ありません。何のためなのかが大事なのです。
また同時にこうした祈願の態度には自分の幸福を願うのはうしろめたく良くないかも・・・という心も見えてきます。
毘沙門様が日に三度も宝を焼き捨てるというのは「そんなのは全然問題じゃないよ。」ということです。
「なるべくドでかい福をもらって皆の為にも分かち合おう!」という祈願でないとそんなチマチマした祈願は毘沙門様には聞こえません。
毘沙門様は仏法第一の善神です。こうした心を毘沙門様はまず愛でてくださるのです。