さて、懇談会の中で新宗教に誘われた方の話が出まして「この宗教に入ったらあなたも幸せになれるのよ!」といわれたとのこと。
じゃあ、幸せってなんでしょうね。これは聞いてみたいです。
第一、一般的な宣伝でなく、一個人に「うちに入信すればあなたも幸せになれる」というのは「あんた、幸せじゃないでしょう。」という前提で話してますよね。
アホな新宗教のきまり文句ですが考えてみるとこれは失礼千万なものいいです。
実はそういうふうな物言いをする御当人が「幸せとは何か」という認識がロクにないまま、ものを云っているのではないかと思います。
おそらく言わんとする「幸せ」は実は不幸の対語であって「不幸が解消するのよ。」という意味合いでしかありません。
でも多分、幸せそのものを語ることはできないでしょう。
勿論、人生の不具合が解消するのもとても大事ですが、不幸と云うのは実は満たされぬ心の状態であって状況ではありません。
「幸福学」と云う新しい学問の分野があります。
そこではお金をもうけたり、豪邸をたてたりすることで人は一時的には大きな満足感を味わいますがそれは幸福感とは違うものであると言っています。
そして、実は人というものは何かを所有することより何かを体験することで豊かになるのだと言います。
色々なことにチャレンジしている人は皆活き活きとしています。
そういう人は皆が皆、客観的には必ずしもお金持ちでないかもしれないし、家庭や生い立ちに問題を抱えた人だっています。体に不調や病気を抱えている人もいます。
でも彼らは不幸なのかと云えばたぶん、そうではなく「エ、幸福かですって、まあしたいことしてるしねえ・・・わかんないけど。一応はそうかも?」と云う感じだと思います。
少なくとも「不幸のどん底」ではありません。
だから変な言い方ですが「不幸でも幸福でいられる人」もいるのです。
宗教とはむしろそういうものだと思います。
「それじゃあそういう新宗教じゃなく金翅鳥院に入信すると幸福になるのか」って・・・?
答はNoです。
どんな宗教で入信するという行為だけでは幸せにはなりせん。
また、真言を100万遍唱えようが、お経を1万巻写経しようが、聖天尊のような強烈な守護神を拝もうが、そういう方法論に頼ってなんとかしてもらいたいとジタバタしているうちは決して幸せにはなりません。
その昔、禅宗の祖、達磨大士が梁の武帝から「朕は堂塔伽藍を立てたり、僧を供養したりして仏法を敬うこと実に多年である。さて、禅師よ。朕の功徳はいかほどかのう?」とたずねられて答えた「陛下。すべて無功徳でございます。」です。
幸せになるには自分がなるのです。してもらうのではないのです。
信仰するとはそういうことです。
「不幸な人」がやることはどこまでも不幸でしかありません。
これが解れば真言も読経もそれらをしてやっと幸せになるのでなく、するほどに幸せな読経であり、幸せな念誦になります。
色々な物事が整って最後の最後に幸せになるのじゃないのです。
先ず幸せになるからこそ整うのです。