金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大河の一滴

昨日、京都から帰ってきました。浄土宗の清浄華院様で行った宿曜の講習第一回です。
大勢おいでいただいてありがとうございました。
皆様と楽しく過ごさせてさせて頂きました。
今回は基礎と云うことでいわゆる「宿曜経」の部分で御話しました。
「尊星王流」に入るのはは来月からです。
所謂宿曜経の部分は判っている人なら第二回からでも間に合います。ご希望の方は問い合わせてみてください。5月は29日金曜日です。

それにしても京都の四条河原町あたりはよく経営が変わるというか、店が変わるというか、しょっちゅう変化してますね。
タクシーから見てもあれ、もうあの店無くなっている?と思います。
駅前のヨドバシカメラも外国人でいっぱいです。
京都駅が新しくなる前の風景ですらだんだん記憶から亡くなっています。
諸行無常ですね。
でもどんなに変わっても京都は京都であるように、そこには変わらない何かがある。まあ考えてみれば「空」とはそんなものでしょう。
人も同じですね。
輪廻の果てに様々に変容するけどその人はやはりその人でしょう。
場合によってはいつのまにか人ですらなくなっているかもしれないけど、、、、。
最近では大河の一滴のように死んだら大きな流れに帰るだけという説もあるけど、もしそれだけならば個人が修行する意味がありませんね。一滴はどんなに頑張っても一滴ですから。
そう考えればなんとなく安心な感じもするけど、清かろうが穢れていようがこの説では元の川に入れば同じですものね。本質的は死ねばどんな人でも灰や土となって万物をはぐくむという唯物論と同じです。
それじゃ修行して頑張っても意味が薄いでしょう。
修行なんかしないでなるべく安気にすごすのがいいということになりませんか?
仏教は三世思想です。ましてや去世も来世もないというのは仏教じゃないです。
私が学生の頃、「死後なんてないんだ。だが私が密教僧をしているのは、ただ〇〇大師を深く信じているからなのだ。」といばっていうお坊さんに逢いました。「〇〇大師はもう亡くなっていますから死後の世界が無ければ信仰しても無駄なんじゃないの?」と聞いてみたかったけど怒られそうなのでやめました。