金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

御経はどうあげる

先日、お経はどこをどうあげたらいいのでしょうという質問がありました。無論、当院で出している経典での話です。
例えば十一面観音なら心経、観音経偈、諸真言と続いて別に十一面経や延命十句観音経もあります。ザックリ言えば全部読めばいいのだけど最略作法も載せています。
結論から言えば好きなものを読めばいいのです。御真言も全部読まないといけないですか?と云われましたが一応主だった諸尊は載せていますが数が多いので面倒なら読まないでもいいです。
随分いい加減な答えだと思う人もいるでしょうが読みたくもないもの読んでも無益なのでそういうほかないのです。
「足が痛いけど我慢して毎日正座して読んでいるのです。わたしってエライでしょ。」なんていうのは無意味です。

だれの為でもなく自分が仏とコンタクトとるための御経ですから嫌々やってもコンタクトとれません。
喜びを持って読まないとコンタクトはとれません。
だから、「読まなきゃダメ!」などと云われなくてもそう本当に思えばなるほどお経を読みたくなると思う人もいます。読むなと云っても読むかも知れません。
思わない人は思わない人です。
ものごとは意味や意義が判れば取り組みも変わります。
結果はご自分が受け取るのであり読まないからと云って罰が当たるわけでも本尊が困るわけでもないです。
無論私も読んで頂かなくても痛くもかゆくもありません。
お経は長く読むから必ずしもいいわけでもないし、短いからダメとも言えません。
要は読経によって本尊と繋がった感覚が大事なのです。

行として読む場合は別です。読みたいからとか読みたくないとかは行では一切関係ないですから。
たとえば理趣分1000巻と云えばどう思おうが1000巻は1000巻です。
そこは泣こうがわめこうが病気になろうが譲れません。
病気になってしまったから300巻で負けてオーケーにしてと云うのはありません。
病気になったならば一返止めてなおってから1からやり直しと云うのが基本です。

ただ、100巻読みさえすればオーケーかと云えばそこは違います。
読めばオーケーではなくオーケーになるための100巻ですから。
行はここを間違えると一つも成就しません。
「そこは臨機応変に自由にやりたい。」というなら、勝手にやればいいので行とは言えません。
そういう方は真実に行がしたいのでなく行をしたと認められたい認証欲求があるだけなのです。