金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

精神統一

精神を統一するということはなかなか難しいですね。本当のこと言えば精神は統一できません。モノじゃないので集められない。
「精神統一」と云われていることは精神を極力省エネすることです。
いってみれば出力オーバーでおうちの電源版があがらないよう、一か所に集めてもらさないことと似ているのです。この集めるというのがクセモノです。
ただ、さっきいったように集めるのはできません。ただ、集めるのではなく集まるようにはできます。
いらない精神活動を極力抑えればいいのです。
具体的には座禅したら定印の親指を合わせたところを意識するとか、微端を意識するとかそういう簡単なことです。
そこを感じていれば精神活動はログオフ状態になってきます。
太極拳の拳套(型、動作のこと)も複雑だけど同じですね。身につけば体感のもので頭はあまり使いません。
精神統一は頭を使わない、言い換えれば精神を使わないのがいいのです。言葉は精神統一と云うけど精神じゃないのです、感覚を感じていく。ここがミソです。そうする間に頭は休まるので回復します。
こういうのは道教系の瞑想や行法に多いですね。仏教は心使うのが多いです。簡単な話、山登りや単純なスポーツでもいいのです。考えなきゃいいのです。するのでなく、しないのがいいのです。
ノイローゼや神経症状には複雑な観想やイメージの瞑想はときとして逆効果です。
そういうのをやり過ぎて頭パンクしている人もいます。
そこへもってきてまたまた同じ手順の方法ではおさまりません。
とりわけイメージと云うのはあんまり繰り返すと飽きてきます。
どんな好きな映画作品でも続けて5回も見ればもうウンザリでしょう。
でも時間を開けてみれば苦にならない。
新しい発見もあるかも。
だから、これも時間措いてたまにやるととても効果的です。
うんざりしているのにこれでもかこれでもかと強いるようにやるのは普通はとても危険です。
私はやっていないからわかりませんが「虚空蔵求聞持法」なんて一旦そうやってアタマを壊してしまうのかもしれませんね。なにせ冬やっても佳境に入れば真っ赤な蝶々が飛んできたりするらしい。そんなにしておいてそれで再構築する。これはかなり荒っぽいと思う。だから優れた阿闍梨さんの指導のもとにやらないといけないとされています。誰もがやれることでもないでしょう。だから秘法とされていますよね。
真似事を勝手にやっては最悪、精神科に行くようになるかもね。
だから密教では普通、イメージ使うけどどんどん流す。これでもかというイメージの洪水を軽く行ってしまう。軽く流すから深層意識に入る。そうでないとついには「またそれかよ!」と云う具合で表層意識に拒否感が出てくるのです。
色々な印をじっくり結びイメージして・・・という人もいます。大変結構ですね。ただ、たまにやるとか、初心者ならばそれでいいけど、いつまでもやっているとか、特に「そうじゃないと駄目なんだ。」なんて言うのは密教を理解していないのだと思う。
だから加行でも普通、21回やるけど、そんなに一座一座ジックリとやらないでもどんどんやるのでいいのです。勿論、そのうちには身のはいらない行だってあるでしょう。だから数やるようになっている。補欠分の印明もあるでしょう。100でも1000でもやったらいいのです。
でもそうやっているうちに身に染まります。一回ばかりじっくりやったからと云ってそんなに早く身にならない。漬物と一緒です。
或いは谷の流れに石を入れておく。すると上流から水とともにコケの種みたいのが流れてきます。水は清く澄み、それは目には見えないくらいなのですが、それでもついには石にも段々コケがついてくる。
そんな感じだと思う。だからこだわらずにどんどんやる。
むかし高野山大学で講師していたM師と高野山の喫茶店でお話して「密教が好きでやる人は最初どんどんより凝った行法をやりたいと思うものだよね。でも、ある程度まで行くとそういうのは要らなくなって、今度はどんどん簡略化しようという気持ちが動きだす。」「いわゆる略法や一印法の世界ですよね。」「終いには、もう御祈祷も秒殺祈祷にしたいものですね。」なんて笑い話したのを思い出します。