金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

それでもクジラ猟には反対です。

昨日は久しぶりにローレンマッコール先生のアニマルコミュニケーションの講座に出ていました。
たまたまその中で私がクジラやイルカ猟についてどう思うかお聞きしました。
マッコール先生はその中「でイルカやクジラの捕獲を文化だの伝統だのと云うけど、我々は進歩しているのにもかかわらず文化や伝統だからとそのまま見直さずに続けていくことがいいのだろうか?また、日本人の何割の人が本当にクジラ猟を必要と考えているのだろうか?本当はほとんど本気で必要と思う人はいないのでは?」というお話がありました。
私もそうだと思う。
これは大事な話です。
仏教徒的には断固、生き物を殺す文化や伝統などはなくすべきだと思います。たとえば普通の漁業は我々が生きるために必要です。
しかし、文化としての殺生は恥ずべきことで禁止されるべきです。
そういう文化伝統など糞喰らえと思います。
例えばスペインでは州による法律で闘牛は今はもうしていません。
国の法律では許していますがすべての州で禁じていますからできないのです。また、英国では狐狩りを禁止しました。どちらも伝統ある行為ですが大変恥ずべきことです。
悪い伝統はない方が良いと思うのです。日本でも闘犬が禁止されているのは神奈川、東京、石川、福井でしたか。そのあたりでは禁止です。
私の寺にも以前、猟友会の方から動物供養の依頼がありました。「あなたがたは生業でもないのに娯楽で生き物殺して、一体どういう供養がしたいのですか?本当に供養したければそんなハンティングなど止めるのが供養です。」といって断りました。
 以前やはりハンティングを趣味の信者さんが「仏教徒はスポーツハンティングなどもってのほか」という私の話に反発してか当院の信徒を止めました。
そういう極めて重い仏戒を平然と踏みにじる人は自分からやめて頂いて感謝です。辞めさす手間が省けて清々します。
イタリアの伝統だと言って今でもコロシアムで殺し合いをしていたらどう思うでしょう。
人間様は別だというのは思い上がりです。
仏教的に言えば我々は動物より上の世界にいます。
ですから我らには彼らのことも考える義務があるのです。
そんなのは必要ないという人は神々への祈願もしないことです。
デーヴァつまり聖天や弁才天など、神々は我々を一つ下の世界の存在として慈しんでくれるのですから。

外国人とりわけ欧米人にクジラやイルカを食べる日本人は野蛮だと言われると私も腹が立ちます。
日本人はお前さんたち程、生き物殺して食べないし、家の中に薄気味悪い動物の骸骨や生皮はいで飾ったり死体の首とって飾ったりしないぞともいいたい。
そして正直クジラは結構美味しいとも思います。
豪州人の様にクジラは神様?とも思いません。

それでも、結論としてはクジラ漁はいらないと思う。
伝統猟であるオーストラリアのアボリジニのウミガメ猟やイヌイットの毛皮のためのアザラシの幼獣狩りも反対です。
そんな伝統などなくなっても全く惜しいと思いません。
オーストラリアもクジラのことで日本にとやかく言う前にウミガメ猟やめなさい。日本も昔はウミガメ猟がありましたが今そんなことはとっくにしていないですよ。
どこの国がどうとか、だれかがどういうからとかでなく、もうそんな時代ではないのです。
むかしはともかくクジラやイルカを食べなくてもどうと云うことはないのですから。
クジラ漁は伝統ではなく必要な猟だ。やめるとクジラとっている人が困るなどというけど、困るならそれこそもうどっかで止めりゃいいのです。
駕籠かき人足が困るから自動車は作らないと言ったらどう思う?
提灯屋が困るから電化はいけないことですか?
勿論一方的にそういうこと言われても困るという意見はありましょう。
和歌山県の県庁ホームページにはクジライルカ猟を肯定するための反論が満載ですからクジラ漁に賛成の人は見ておくといいかも。
正直言って私は納得はできないけど県の産業を護るためのお役所の涙ぐましい努力がにじみ出ている力作です。(これは嫌味でいうのではありません。)
賛成派の方は効果的に理論武装できますので必見ですよ。
そういう意見も見たうえでこの問題を考えることが大事です。
私はクジラが可哀そうとかいうような感情論とか、外国にやかましく云われるからと云うような国際的理由で反対なのではありません。
只でさえ殺生せずに存在できないのが我々人類です。この上無用の殺生は極力しないことが人類にとってよいから。
それだけです。