金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

水子供養に思う。

水子供養と云うのは一時流行りました。
こういってはいけないが私の若いころ、一時はブームみたいでした。
皆余り昔ほどやりません。やる人はもうやってしまっているのかもね。
それとも子供のできる率が低下しているのかな。
カソリックは堕胎はいけないそうですね。
他の宗教だっていけないのは当然いけないでしょう。
でもカソリックは避妊もいけないのだというのだから厳しいです。
堕胎は殺人でしょうか?やはり、殺人でしょうね。広い意味では。
だけど人殺しというほどの自覚はないし、周りも堕胎した人を人殺しとは言わないですね。
これは実は線引きがあるからです。つまり社会の構成単位として世の中に出現しないから影響がない。見たこともない人が見たことのないままいなくなるのだから。観念的には元々いないのと一緒ということです。
世間一般から言えば可愛がっていたイヌやネコがいなくなった方がショックなのかもしれません。供養も犬猫のほうは伸びてます。
こうしてみると殺人とはなんでしょうね?
殺しても社会的に影響がないならいいの?
まあ、そんな人はいないと思うけど。
おそらく、私たちの概念として殺人ということには多分に社会的な罪の部分があるのですね。
若し仮りに人殺しが罰金祓えばいいだけなら皆、安心できません。
だから厳罰にして長い間、刑務所に入れるわけです。
いわば、此れが社会の共通理解です。
ところが見たことない人が見たことないままいなくなっても誰も責めない。
この観念は一転するととても怖いことになる。
クソガキがやるホームレス殺しもそんな思いが隠れていると思う。
社会的にどうあれ、水子を故意に出してしまうのはやはり大きな罪だと思います。
ジェンダーフリーの方は女性ばかりを責める水子供養はおかしいと言います。
勿論、責任論なら両性にあります。一人じゃ子供出来ないんだから。
ただ供養と云うのは責任論だけじゃ成り立たないです。
やはり御腹痛めた人の方が喜びも悲しみもショックも大きいのは理屈じゃない。

私がまだ若いころ「水子の祟りだと言われているので供養してほしい。:」という女性が来ました。
「初めはそんなの気にもしなかったけどどうもろくな事が無い。」というのです。
「では供養するのですか?」と聞いたら「ただ、その供養も祟ってないならいらない。だからそれを見て欲しい」とのこと。
「あんたの考えているのは供養じゃないね!まあいってみれば水子の縁切りでしょう。供養と云うのはね。水子供養というのは水子と向きあって、本当に御免なさい。といってせめてできることをかたちにするのが供養なんだ。
多分アンタがろくな事が無いのは水子のせいじゃなくて根性が曲がっているロクデナシだからでしょう。」といったら激怒するかと思いきや意外に「そうかも・・・。」ということで供養をして帰られました。どこか心に残っていたでしょう。赤ちゃんへの想いが。

だから男の身で女性のことは本当にはわかりませんが水子を出して本当に何とも思わない女性はいないと思います。
水子供養は一つは赤ちゃんの為、一つにはそうした心の傷を治すこと。傷は隠しておいてはてはよくならないです。
向き合って治し合うの供養です。
だから、向き合う心無くして供養なしです。
葬式だって同じですけど、葬儀の場でもう遺産の話で言い争いする人の話聞くと、向き合っているのは、故人じゃなくてそのお金の方もいるようですな。
その点、動物の供養、葬儀は供養する人に欲得や義理の想いはないからむしろ人間様の場合よりすがすがしい気持ちがしますね。