金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

忘己利他

「忘己利他」
天台の流れをくむ諸宗の坊さんならだれでも知っている伝教大師のお言葉です。比叡山は本家ですから当たり前ですが、当然我が天台寺門宗でもそうです。(でも長年、坊主やってて知らないバカもいるかもね)
もともと大師の「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」という言葉から出た四字熟語ですが、法話の席でもこれを言うのはなかなか大変ですね。
不謹慎な話しながら「もうこりた」と云うところから「もう懲りた。慈悲の極み」などと笑い話になることもあります。
でも「それじゃあダメなんだよ!」と胸を張って言える人はどのくらいいるでしょうか。
昔そういって教えてくれた信仰の先輩がいました。
「でも私は自分に何一ついい事が無いなら、なんであれ私はそれはしません。」と返すと「キミはわかっていない。」といわれました。
そういう意味ではいまでも「わかっていない」ですね。
他人様に親切にするのも気持ちがいいからするのですから・・・。
そして災害に寄付するのも自分だったらどんなに辛いだろう・・・・と思っているからこそしてます。
犬や猫が難儀していたら、もし自分がこの犬や猫だったらいやだなと思うので助けます。もっというならその嫌な感情を消したいからです。
嫌に思わないなら助けないかもね。でもそれは嫌なので助けるわけです。
全部自分に引き換えます。他者は外にいません。全部自分のうちにいるからそう思うのです。
自己満足だと云えばそうですね。それ以外別な心などは有りません。

人が行動する動機はふたつ。自分がしたいからか、することが義務だからかです。
信仰なんてしたいからするので義務だからするのは不幸です。

大師のこの言葉がもしも「自分のことなんて捨ててしまって他人様のことをせよ。」と云うだけの意味なら私もできませんし、・・・そんなのあえてしたいと思いません。
「なんだと。貴様それでも天台僧の端くれか?」と叱られそうですが、叱る人も大概できちゃいませんから平気です。
よしんばできていたならそれは拍手喝さいの名人芸か自己陶酔的な思い込みですね。
でも正直な話、私はそうしたいとは思いません。
よく、読めばお言葉は「自分を捨てて・・・」ではないのです。
「捨己利他」とは書いてありません。
「自分のことは忘れて・・・」であります。

人は何か理想に燃えるとき小さな我を越えます。
小さな我とは衣食住のような「物」に拘泥する我です。
衣食住のうち衣は別にしてほかの動物だって全部していることです。命の基本です。(毛皮とか羽毛とか鱗とか動物は皆生まれついての自前の衣服を着てます)
でもそれだけじゃ人間じゃない。
人間には自分のことも含めて皆が幸せになってもらいたいという理想があるのです。
その次元に上がってくるともう自分だの他人だのじゃないですね。
でもここから自分をはずしちゃだめだと私は思うのです。
人は幸せにして自分は幸せにならないは無用です。
日本人は自分を犠牲にしてと云う犠牲の物語が好きですね。
私も昔は好きでしたが仏教を勉強したおかげで今はまっぴらごめんです。これ一種の自己陶酔です。

誰かが犠牲になったから皆が幸せにある。だから自分はその犠牲になるのが立派なことだという観念です。
でもそれって本当にそうなのでしょうか。私は違うと思います。
なぜならこういう考えだと幸せになった人は犠牲者の負債を背負わされないといけない構造だからです。感謝は必要ですがこれでは皆が笑える世界にはなりません。

般若心経の最後にあるギャーテーギャーテーという呪文は「行こう、行こう。皆で行こう。涅槃のあの岸へ」という意味だそうですね。実はこれは他動系のだそうですけど・・・。
自分なんて・・・と云う「自分いじめ」は子供時代からもうたくさんしているでしょう。
でもそれで他人様にどんないいことができますか?
世間様、人様に幸せになっていただきたいというのはまず自分が幸せとは何か知らないと駄目でしょう。
美味しいと思うからこそ人にも食べて頂きたい心と同じです。
自分が味を知らないでは美味しいものもまずいものもありません。

伝教大姉の御言葉は「悪事を己に迎え、好を他に与え」とあってその次に「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」とくるのですから、たしかに一見、自己犠牲的ですが悪事とは何か?好事はなにか?
大師は「施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入る」といわれています。
だったら好事とはいってもなにかしてもらうばかりでは駄目ですよね。
大師ともあろう御方が人を地獄行にするようなことをしろと勧めるわけがありません。
他人様にしてもらうことだってとてもとても大事なのです。
布施を受ける云うことです。布施はプージャという梵語で御接待ですから元々の意味からお香典のことじゃありません。。
極楽ではお互いに長いお箸でお食事を食べさせ合うといいますが、その心が大事です。
必ず、自分を幸せの勘定に入れてください。
そして人にもその幸せを施すことが大事ですが・・・・犠牲は必要ないのではありませんか。