瞑想がすすめば万物の究極的な構成要素である四大元素の働きが見えたり、ニミッタという光が出現したりするといいます。
大乗であれ部派仏教であれ忘れてならないのは仏教は宗教で哲学ではないので究極的に実践あるのみです。
思索も思索のみでは成り立ちません。
でも部派仏教の在り方はかなり分析的ではありますね。
つまり部派仏教の「空」というのはこれは宇宙論です。
これに対して大乗の「空」は認識論的です。
宇宙はどうなっているのかという以前に当の我々自体の問題を扱います。我々の問題を扱ってしまうとそれは認識論になります。
我々の認識や思考を疑う。そういうところがあります。
でもこれを否定してしまうと我々は何も知りえないという懐疑論になりますね。
認識の枠を超えるにも認識を通してという方法しかない。
そこで出てくる手段の一つが唯識論だと思うのです。
私は唯識の専門家じゃないし、専門教育も受けていませんが端的に言って我々の認識以外何もないわけです。でも終いにはその認識自体も究極的にはない。
それじゃなんだかわからないだろうと思うかもしれない。
究極的には答えになってない。
哲学的にだけ考えるとそうですね。
でもそれは間違っていないんです。
哲学としては答えが出ないのが仏教です。唯識も畢竟空へのあしがかりであり階梯にすぎない。理解のための方便です。
此処を間違えると戯論になります。
理趣分などは乱暴な言い方ですが「本当は何も言っていないよ」とただただ書き連ねてあるのです。
般若経は否定によるアプローチです。
金剛経では「仏法」とはかの岸に渡るための「いかだ」にすぎないといわれています。
つまるところ八万法蔵も「方便」以外の何物でもないのであります。