金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

聖天信仰は喜びが命です。

※初めて読む方は一番下の「新しい聖天信仰」の記事からまず始めにお読みください

幸せになりたいですか?
なら喜ぶことです。
歓喜天とは「歓び喜ぶ天」と云う徹底した喜びの天尊です。
ですから天尊に近づくにはまず喜ぶということが大事です。
長年信仰していてもいつも苦虫を噛んだような顔をしていたり、四六時中愚痴や人の悪口を言っていては歓喜天が御納受されるわけがありません。
そういうことは最もお嫌いです。
聖天信仰の口伝に口を慎むということがありますがこれはそういうことでしょう。とりわけ行者は口が多いやつはダメだとされているようです。
これは先の善光寺大勧進のI大僧正もそういっておられたそうです。
この大僧正様は華水供ですが毎日欠かさず拝む方です。
今はもう退任されて日光に帰られています。
もう90歳くらいになられましたので現在はどうされているかわかりませんが実によく拝むのでわが師が訪ねて行ったところ、皆数ある尊天が光芒を放って見えたそうです。師匠は自分は霊能力などはないといっていましたがそうでもなかったようです。
その師も聖天信者は愚痴はならないと信者さんに愚痴を言うのを禁じられました。そしてどうせ愚痴をいうなら寺に来て私に言いなさい。聞いてあげますからと言われました。
先ずは些細なことでも喜ぶことです。
他人様のことでも大いに喜ぶことです。
そうやって喜ぶ練習をしていますとそれらも決して些細なことではないと実感して知れます。
尊天の感応を得たいならまず喜びを持って生きることです。
泣き顔や嘆息してばかりではいくら拝んでも届きません。

そもそも人間の幸福などは歓びの共感につきます。
幸福は不幸の反対ではない。
一見不幸に見える状況でも喜びを共有できるならそこには幸福があります。
金銀財宝に囲まれ、いかに優れた能力があってもこれがないならそこに幸せはないでしょう。
人は満足するということを怖れます。そこで満足すると止まると信じているのです。
でも一回一回満足して進んでも全く問題はないはずなのです。
いくらよくなってもまだまだダメだという人がいます。
目標が高ければそれもそうなるなのかもしれませんが喜ぶことを忘れたらたとえ目的地についても喜べない。
そこからまた次の目標を見て又進むことのみに終始することになりませんか?
実力ある人ほど実際そうあるべきだだと考えている人も多いでしょう。
でもそこには感謝がありません。
先に喜べば感謝できます。
感謝なくしては信仰は成り立ちません。