金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

馬鹿馬鹿しい実験

今日はシロアリ駆除で小鳥を二階に移しました。
業者は大丈夫だというのですが一応毒性が気になりますので。
その中にはウスユキバトと云う可愛いハトもいます。よく卵を産んで増えるというのですが一向に増えません。
飼った店に聞いたら「つがい」ではなくどうも「兄弟」だったようです。
増えるわけないわな。

ハトと云えば昔、駒沢大に在学していたころ、ハトの迷信的行動の実験というのがありました。私は当時、社会学心理学コースにいましたので、こういう授業があったわけですが、これは実験したわけでは無く、まあ、お話しだけでした。
でもその内容は何かの拍子にハトがレバーをたたいたら豆を落とす。まあそういう装置を作るのでしょうが、毎回これをくりかえします。すると終いにはハトは豆欲しさにさかんにレバーをたたくというもので、人の宗教への迷信行動も所詮こういうものというお話でした。
しかしこの実験は全然霊験の否定になりません。まず実験をする人間がいい加減な神様としてそういう装置を動かしています。
また、レバーと豆は関係ないという大前提で始めていますが、同じように祈りと霊験は関係ないという大前提で考えているのでそういえるだけでそうでなければ実験そのものが成り立たないわけです。
でも正直私は感心しました。
何方がお考えになったのか存じませんが、この実験の馬鹿さ加減に。

最近も霊験や祈りを脳科学で云々と臂う話はよく効きます。
この間もある記事について「呪術は科学だという見出しでどうか」という出版社の相談があったけど、呪術は科学?そうじゃありませんよ。
科学は科学、咒術は咒術です。科学というのはあくまで客観的という立場で終始するのだけど宗教はそうじゃない。
客観的に見れば宗教学ですがそれで宗教の社会学的な側面は判っても宗教そのものは信仰でしかわかりません。
だからたまに科学的に言うとそれってどういうことですか?」と聞かれますが、答えはいつも「そんなことは知りません。私、科学者じゃないですから。」でおわりです。
でも呪術だろうが宗教だろうが科学することはできる。それだけのことです。ところがともすればそれをすぐそこをつかまえて○○は科学だといってしまう。
それは科学自体が全く判っていないね。
宗教人の科学的立場は

私は科学畑の人間じゃないけどその程度の理屈は判ります。
科学も大変結構ですがそういう考え自体が、祈りはつまりは脳科学だなどという前提そのものも一種の迷信的なものではないのかな・・・と思えてなりません。

そういうことでわかることも無論たくさんあるだろうけどそれでおわるようなものじゃないですね。
それで判ったと思ってはダメです。
信仰というのは。