正直な感想はどれもそれなりに凄いと思った。
今に寺なんかに相談に来るヤツはいなくなるね。
寺は葬儀は葬儀屋に取られ、加持祈祷や相談は彼らにとって代わられて何もやることなしになるかも。
この点正直危惧します。信仰も無いし、修行も、布教もしない寺は自業自得だけどね。まあこのぶんだと将来寺は半分も残るかな?と思う。
役目が終わって、もうやることなければ滅ぶものは滅ぶしかないのです。
まあ、いろいろなとこいって修行になりました。
其々に感謝申して上げております。
その結果共通してどこでも聞くのが「学び」ということ。
どんな不幸な出来事も実はそれを自分が選んできたんだよという立場です。
なんのため?
どういう学びの為。
従来のどうしてこんな不幸なことが…?というのに対して180度の大回転。
実は自分で選んできたんだという考えです。
実はこの考えは今に始まったことじゃないのです。古典的なスピリチュアリズムにもありました。戦前からあったようです。
スゴイのは今回の津波や第二次戦争もそうだと考えること。
これは仏教の業論と正反対の考えですね。
近い線をしいていうならこの世は修行の場ということなんでしょうね。
それはまあ一応はうなずけます。
でも大災害や戦争を体験して何学ぶの?学んでどうするというの?
「我々の体験するすべて。それは実は学びなんです。」という考えはなるほどねという一面は確かにある。そうなんだろう。そこはオーケー。
わかります。
でも仏教的に言うならそれをしないで済むようにしたいということ。
じゃあ実際悲惨な目にあって何かを学んだ?
学ぶこともあるけど、それがもとで人生観狂うことだって多いじゃないですか?本当はそっち。負の連鎖ができていくだけの方が多いと思うよ。
戦場で死んだ亡霊になって何百年とさまよう人は何を学ぶの?
地縛霊になって何学ぶの?だから私はこの説「学びなのだ」は理解できますが、でも「だからオーケー」というのは反対です。
そういう学びはしないでむようにしたい!
確かに追体験しようとする魂が人間にはある事。
これは事実です。学びと云えば学びかも。
しかし、仏教ではこれを古来「根本無明」といいます。だからおわらない。
いくら学んでも。
例えば暴力的な家庭で育って「ああ、もう暴力なんて絶対嫌だ」という人が往々にしてとても暴力的な人と結婚してしまったりします。
これは確かにある。それが輪廻単位で起きてくる。
だから戦争はもう絶対嫌だ。二度としないと戦争終わって70年たっても言いまくっている国は亦戦争する可能性大なのです。奥にまだまだしこりがあるからそうなる。なのであの戦争は日本の一方的なアジア侵略と国際正義の戦いでかたずけないとならない。そうでないと封じきれないと思っているのでしょう。
何故ならそうでもしないとまだ学び足らないという「無明」が発動するからです。本当は逆効果だと思うけど。
なぜなら納得のいかない体験はそれを次世代に転生してでも何度もやろうとします。
そういう意味じゃ学びですよね。確かに。
学びと云えば学びだけどこれは盲目的学び、本当はしないで良い学びです。しちゃいけない学びです。
第二次大戦で人類の魂は何か学んだでしょうか?
でも、その割にはまだ方々であいかわらずドンパチやっていますね。
だからこそ大乗仏教は「本覚思想」を提唱します。
あなた方はもうそんなのしないで良いのだというわけです。既に分かっているのだと。
それを知ることが悟り。
悲惨な体験も実は学びだとしたらもうその学びなんて必要はないと知ることです。
だから戦争みたいに愚かな学びのために繰り返される愚行はやはりとめないと駄目です。
だから全てを体験からのみ「学ぶ」という方法はいらないのです。
NLP的に全てはプロセスだと肯定的に考えてもこれだとホント暦劫修行でも不足な位です。