金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

軍荼利明王

※初めて読む方は一番下の「新しい聖天信仰」の記事からまず始めにお読みください

聖天真言のうち、最も知られたオンキリギャクウンソワカという真言を分解するとキリは十一面観音、ギャクは聖天で、ウンは軍荼利明王といわれています。
この軍荼利明王は常随魔ビナーヤカを降伏する本誓があります。
その為、聖天信仰に軍荼利明王はつきものなのです。
「毘那夜迦信仰」は前にも書いてありますが取引信仰です。
これは聖天尊に届かず毘那夜迦に届いてしまう。
何故なら取引という発想が天尊にはないからです。
取引しないといけない理由がない。故に「自在神力大聖歓喜双身天王」と最初にお唱えしているわけなのですが、自在神力の御方が我々ケチな人間なんぞと取引なんかしません。
その心の誠のみをみそなわして利益を下さるのです。
お供物を沢山あげると喜ぶといいますが、それは聖天様がものほしいのでなく、えらく大力ながら無邪気な子供の様な心の持ち主だからです。

ところが心に誠がないから卑しい心根で取引や交換条件で尊天を動かそうとする。
茶断ち、塩断ちなどはまだしも、どうかこれだけは叶えて下さい。
かわりに○○・・・・というふうになる。
例えばこれさえ叶えば・・・・○○奉納します。これも交換条件です。
良い祈り方ではないですね。
こういう人は無条件に人に良くするということもできないでしょう。
詰まらない「小人」(ショウジンと読む)の類です。
最近、一部で小人という言葉は何故だか差別用語だからいけない言葉だといいます。
そんなことは知ったことじゃありません。
そういう理由は小人は小さい人をバカにすることになるというのだそうです。アホか。
日本語の意味を知らない無教養な人が言っているのでしょうね。
「小人」とは真心からする事が極めて少ない人のことです。
公益の心なない人です。
そんな人物に聖天様は感応しません。
ですから交換条件はやめましょう。
叶ったら願ほどきするのは聖天信仰ならずとも当たり前ですが
そういう祈り方だとやはり交換条件になりかねないですね。
叶ったら叶ったときに自分の気持ちでするのがお礼です。
御礼参りは聖天信仰では決まったことですから交換条件ではありませんが先に叶ったら特別なことをしますなどとはあらかじめ提示しないことです。
そうなると叶ったから○○しなきゃいけないか…でも。となっては全然ありがたみがない。
また、したらしたで叶えば○○しますという取引を定着させてしまいます。
聖天様が皆さんにしてほしいのは感謝の真心から出た行為でほかにはないのです。
でもそういう人間の狡さ、したたかさをとても深く嫌うのも聖天様です。
心願が叶っても口にしたお礼をしなかったばかりに…という聖天信仰でいう天罰の話はよく訊きます。
実際に障礙をするのは契約した相手の毘那夜迦なのですが尊天はそういう障礙を横目で見ても決して救ってはくれません。
自業自得なのです。
だから毘那夜迦と取引してどんどん良くなってもしまいにはひっくり返る。
聖天信仰さえあれば何でも叶うと間違った信仰で増上慢になって滅びます。
でも本当を言えばこれらは本当の聖天信仰じゃないですね。
ここで必要なのが軍荼利明王です。
軍荼利明王を信仰すると変に派手な御利益はなくなる。
毘那夜迦が影をひそめます。かわりに魔事や障礙等のいわくの付いたご利益はなくなります。
だから交換条件で祈っても叶わない。
本当の聖天信仰は、ここぞというときに御救い下さる。長い目で見て初めて有難い御加護が判る・・そういうものです。
無茶苦茶バカ当たりするような派手な御利益なんてないのが本当です。
こういう当たり方は毘那夜迦を信仰すればそうなる。
でもいくら交換条件だしても叶わない人がいる。そういう人は仏縁が濃いのです。
やめておきなさいというメッセージが届きやすい人です。
ある時、この話をしたらどこにでも愚かな人はいるもので「むしろそれなら毘那夜迦信仰が良いから毘那夜迦で拝んでほしい」というこというの人物がいました。
人の言うこと何も聞いてません。
金出せば何でも祈ると思っている。
僧侶は請負業じゃないので、そんなアホな注文は受けません。

軍荼利様はよく聖天信仰で霊験が遅い祈るなんて言うけど、それは催促なんかじゃない。
軍荼利様を祈るのは自分の祈りを再点検してくださいということです。
その祈りはおかしいだろうということです。
だから当院では軍荼利様はドンと須弥壇の真ん前においてあります。
我々が陥りやすいところです。
だからオンキリギャクウンソワカの「ウン」は軍荼利様なのだと意識して称えたいものです。
聖天信仰は観音信仰と軍荼利信仰を措いては成りません。