金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

仏像と御札

最近お仏像をお祀りしたいのですが…という問い合わせがよくあります。
大体が拙寺に話が来るのは仏壇の本尊様ではなく祈願の対象の話。
観音様やお不動様はともかく天尊を祀るというのはやはり考え物です。
観音様でも私の師匠は十一面様は怖いからちょっとやそっとの信仰では…と云っていました。事実、持って行った十一面様のお像のほとんどが帰ってきました。
帰ってこないのは行者の弟子のとこにいった尊像だけ。
聖天様は祀れないので代わりに本地仏の十一面様を祀るということはよくあります。でもそれでさえこの有様なのです。
仏像を祀り礼拝すること自体は本来功徳のあることです。
それがそうならない。
功徳になっていないからそういうことになるのでしょう。
つまり仏像をなにか願望実現製造機のように思って持って行っているのでしょうね。これは筋違いです。
聖天様なんか思いきりそういう筋違いで尊像まで祀る人がいます。
尊像まで祀ればさぞご利益があるだろう。ちょっと怖いけどご利益第一で祀る。まあ、祀ってあげるんだから悪いことはないだろうとか、神様なんだから祟るなどというのは迷信とか・・・勝手に自分で理屈付けて良いとこだけ信じて祀る。
でも、そうやって祀ったほとんどが帰ってくるそうです。
昔ある有名な聖天様で聞いたお話ではもうほとんど全部と言って良いくらい祀っても納めに来るそうです。

仏像を祀る正しい理由は基本的にお供養したいというそれだけです。
ほかにあってはなりません。
天部などはなにも修行ももせず飾ってあるだけでは嫌がります。
たとえ在家風でも一生懸命お経があがる。お供物も上げる。そして仏道に心して日々をはげむ。そこが大事です。
だからこそ功徳になる。
仏像を持って帰ってきて、おいておけば幸せになるなんてそれこそ迷信ですね。
祈願でなく供養の心、修養の心が大事です。
無論、祈願も当然して良いのですがそれ以前にまず供養の心です。
祀るのが難しいというのはそういうこと。供養の心が無いなら本尊がそこにいたがらないということです。それが顕著だと怖いということになる。
もし、祈願の心だけの人が仏様を祀りこむと願望実現の暁には本尊は無用のものになり粗末になります。
結果、徳を傷つけ、時には守護の諸天善神の怒りさえも買います。
そういう人はなかなか願望が叶わなくても同じ結果になります。
尊像は誇りをかぶるだけ。甚だしくは処分。恭しく奉納させてくださいなどと云いますが要は態良く捨てるのです。
これはいけません。
だから時々こんなもの何故在家の人が持っているのか?と思うようなものも運び込まれます。もうこんなのいらないという訳です。
こういう人に懸っては祈願が叶っても叶わなくても結果は同じです。本尊の末路はお払い箱。
そういう人間が幸せになれますか?といいたい。
ある意味、犬や猫捨てるより酷いかもしれません。仏様捨てちゃうんですから!!【もっとも仏像が捨てられても仏様は死ぬわけじゃないから、実質的に可哀そうなのはむしろ犬猫のほうだろうけど。】

祈願の為にあるのが御札です。御札はそのための物。
御札は願望に特化した本尊のパワーを祈り請うものです。
だから祈願が叶えば御礼を申し上げお返ししてお焚きあげできます。

しかし、仏像はもっとトータルな存在です。
御祈願が叶ったから仏像お焚きあげなんてことはあり得ません。
例えば腕の良い料理人のお店に行くのは御札を祀るような感じ。
だけどいくら腕がいいからと云って家に呼んできて料理人として自宅におくのはそれ相応の覚悟がいります。
料理以外の色々な面でも接触しなくてはならないでしょう。
料理人に仏様を例えるのはあまり適当ではないかもしれませんが要はそういうことです。この譬えは弁護士でも医者でもいいのです。
用事があるから行くのでなく、もう家の人になってもらうくらいの違いです。
頼んで家族になってもらった仏様を粗末にするのはとんでもないことですよね。
家族というのは望みがかなおうとかなわまいとともに心を通わせていく存在。喜びも悲しみも・・・。
戦争中空襲があって執るものもとりあえず仏様だけ持って逃げたという話があちこちにあります。見上げた心です。
欲得で家族を迎えるというのはおかしい話でしょう。
あってはならないことです。
だから大抵は御札で良いのです。