金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

上村君殺害の初公判

先日、中学生の植村君が殺されたことで初公判がありました。
加害者はまだ少年ということですが、弁護側は加害者であるこの少年がこんなになってしまったのは…ということで生い立ちがどうの生育環境がどうので情状酌量を願いでているらしい。
弁護士はそれが仕事だからまあそういうもんなんでしょうし、日本の裁判というより多くの先進国では検察が被告を追及し、一方に弁護士がいて被告を擁護するというスタイルのなかでの司法判断という仕組みなんでそれは当たり前のことです。
しかし、自分よりずっと年下の子供を集団で川でへ落して無理やり泳がせたあげく刃物で首を切って殺すなんてのはそれ自体が異常行為ですからいってみれば異常な心が背景があるのは当たり前だと思うのです。
それは情状酌量する理由になるのだろうか…?
このあたりはいつも疑問に思う。
ちゃんとした教育が無かった。だから殺人犯になった。
こういった事件で付き物の弁護理由。
でもそういうことなら、とりもなおさず殺人犯になるのはちゃんとした教育が無かったということでは・・・?
だとすればこういう事件はみんな情状酌量ですね。
猟奇的で酷いほどそうなる。勿論、人間と雖も猛獣のように生まれた時から檻に入れて教育もせずおかしな育て方すればみんな異常者になるでしょう。人間は5,6才あたりで人間らしい教育をほどこさないと、人らしい人間にはなり難いそうです。
ここまでくればもう善悪の識別能力の問題ですから別です。
動物と一緒。
極端な話、このようなどう考えてもおかしくなるのが当たり前というような状況なら情状酌量もありでしょうが・・・・。
もっとも弁護士というのは少しでも理由を付けて刑を軽くするのが仕事ですからこうした弁護の行為自体をいけないなどとは思いません。
無論そのためならなんでもありでしょう。量刑軽減のためにはあらゆる可能性を模索する。
それが裁判における弁護というものです。
オウムの麻原でさえ無罪という主張も出てきていた位ですから。
また、この検察、弁護士、裁判官で進める裁判の仕組みが良くないなどとも全然思いません。
でも弁護側の主張が報道されると、ともすると「え、そんなのまでもこの事件の情状酌量の理由になるのだろうか?」という疑問が湧いてしまうのは私だけでしょうか。
弁護なんだから何でもアリなんだということが前提でわかってないと、それであたかも当然、情状を汲むべくものであるようかのように聞こえてくる。
それが社会の中で通念になっていく。
ここがこわいところです。
それで有罪或いは求刑通りだと不当な判決だと騒ぐ。
言い換えるなら生育環境が悪かった人は殺人事件を犯しても仕方ないという通念です。可哀そうな人なんだから・・・・でいいいのでしょうか?

被告の少年は、勿論よい教育が施されてきたわけではないかもしれない。しかし、それほど非人間的な環境におかれて社会における善悪是非すらも判らぬ異常者として育ったわけではないと思う。
日本で十分でない教育環境というのは一体どんな程度のものでしょう。
世界を見回すと日本より劣悪な環境で育った国の人はで日本人より断然多い。皆悪人になっていますか?
食べ物に困る国ではその国民は子供が全員泥棒になっても仕方ないと考えているのでしょうか。
情状酌量というのはそれに対して抗ったが駄目だった経過や抵抗できない事由こそが情状酌量すべきものなのではないのでしょうか?
勿論、こうした犯罪は受刑者にいかに長い間労役を課しても、ただそれのみで再犯の可能性がなくなるわけではない。
社会を前提としたその中の自分というのを見つけられなくては根本的な意識の転換はできないと思うのです。
生育過程で彼らに足りなかったものは幸福な家庭などではなく、本当はそれだからです。