金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

紙札と木札

御札には紙札と木札があります。木札の方が見てくれは立派なので良く出されます。
でも、当院の場合はほとんど出しません。
今回の星祭ももちろん全部紙札。
昔、師匠の寺で初めて御祈祷を頼んだ時に紙札でした。
当時三千円の御祈祷料でした。そういう場合は木札が経験上多かった。
紙札は霊場なんかで300円ほどのものだと思っていましたから。「・・・木札じゃないんですね?」と尋ねたところ。
師匠、・・・まだその当時は師匠ではなかったのですが住職は私の心を察したのか笑って「木札はね。内符が入らないからうちでは基本的には使わないんだよ。」といわれました。
なるほどね。内符か・・・。
だいいち納めるのは御札の代金じゃなく、あくまで祈祷料なんですね。
此処間違えていたなと思いました。
内符というのは御札に入れる真言や聖句、仏画や霊符をしたためたものです。
師匠に言わせると内符が無いのと有るのじゃ結果が違うということでした。
一々墨をすって筆で書く。
小僧時代の御祈祷に関わる仕事は専らこの内符書き。
字が下手だから毎日写経して練習。怒鳴るとか暴力をふるうということはない方でしたがそれでも「これは字がまずいから使えない。」とせっせと書いて束にしてもっていったものが目の前でビリッと破かれたりしました。
でもおかげで梵字真言もかけるようになりました。
「加行中」で何百という護摩札を書いて帰る人がいました。
此れ関係寺院や世話になった人へのおみやげですね。
行をしてまいりましたということでもらって頂くものです。関係者が多いと大変です。この場合は木札だけど全部手書きです。
私は木札の場合も今でも内符が入らない分オール手書きです。
あんまりその数が多い何百という人がいたので、気の毒になって手伝ったらご本人は喜ばれましたが、適当なところでやめようとしたら上の人から厳しく叱られた。
「おい。お前。中途半端なことしないで手を付けたら全部書け!」
加行中で夜中に起きなきゃいけないのでこれは大変でした。
マア、木札は立派だからそれでもその方が好きという人もいますけどね。
でも本当に拝もうと思って実際作ると大変なのは紙札です。
今でも門下には一から作っている弟子もいます。
私の場合、さすがに外描きや本尊の御真言は印刷にしていますが内符は一つ一つ目的別の御真言を書いています。星祭は仏画を入れていますが、これもさすがに印刷だけど年回りで全部違います。
何故なら当年星供の儀軌である「梵天火羅九曜」では部屋に神像を祀るよう指示しているからです。
でも時折○千円も出しているのに木札じゃないの?と思う方もあるようです。
○千円どころか○万円でもうちは紙札で通しています。
訊いてくれれば説明もできますが。大概は黙って不満やいぶかしく思うのでしょうね。
私がそう思ったように・・・。だからそこを書いてみました。
人型は全てが手書き。そうじゃないと効果の出せない秘伝のところがあります。
もう今は亡き私の同門で、見てくれが気になる人がいてその人は手書きじゃなく全部印刷にした。人型まで・・・確かにはるかに見てくれはいいのですが・・・
マア、こういう作業は数が多くなるとできないんですね。
祈願数が1000枚とかあったらどうだろう?たぶん、一人じゃまず無理ですね。
こういうのはうちみたいな零細寺院だからこそできる。
小さいお寺や教会はそこが命だと思います。
だから丁寧という一点では木札より紙札がはるかに手間がかかる。
内符は手作業ですから書き損じも出ますし、同じ御祈祷でも目的によって違う。
たとえば表書きが「家内安全」でも災難が無いようにというなら息災真言をしたためて入れますが、家族仲が良くないというなら敬愛真言を入れなくてはならないという具合です。
病気などもその種類によって使い分けることがよくあります。
もっともこういう作業は一切しないで全部印刷で内符も入れないなら木札と同じことです。
だから大寺院様ほど手間がかからず、羽織に名前だけ書けばいい木札の方が便利です。圧倒的に良く出されます。
私は師匠の伝統で紙札です。
抑々、祈願の御札は仏教的には「大随求陀羅尼」や「般若経」のように真言や聖句を書いて安置することが原点。
或いは巻数(カンズと読む)といって唱えた真言や供養法の度数を書いたものなど、本来はいずれも紙媒体なのです。
木札が盛んになるのは江戸時代からですね。
それまでは修験道の入峰で使う碑伝や棟木札位でしょうか。
かといって別に木札が悪いとは思いませんが形の上から紙札の方が本来ではありますので私はそうしています。
そういうの結構凝る方ですし。