金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

祈祷講習後のお話し

さきほど二時間ほど前に信貴山の祈祷講習から帰ってきました。幸い天気も良く、なによりもたくさんの方から喜んでいただけたようで私もこれに勝る喜びはありません。
そんななかで「続行者祈祷秘巻」のような感じのものを出来ないかという御話も出ました。
祈願寺菩提寺に転向しようとする傾向は以前からありましたが私は微力ながらこれに「待った!」をかけたいのです。
今では逆に葬式法事が減少してその分だけでも祈祷に転向しようという寺もあるからです。その傾向は少しずつ大きくなっています。
ですから、これからの仏教の主流は亡くなった人うんぬんよりも生きている人に対するアピール次第だと感じています。それは祈祷とは限りません。
浄土宗の清浄華院様でカウンセラーの勉強させて頂いているのもその為です。
葬式法事はそれはそれで大事ですが、おたくは代々○○宗だからというくくりで、江戸時代以来の宗旨人別帳による宗派を続けさせていくことにはもはや無理があると思うのです。
それでもあえてそれをしようとするなら生き残りをかけた熱心な布教が欠かせません。
でも法事や檀家の減少を嘆く一方で、その対抗策として説法や布教に熱心であるかというと必ずしもそうでもないのが実情のようです。
人を信仰に導くにはまず、自分がその信仰が無ければならないでしょう。
私は信仰させる人で信仰する人ではないなどというのは全く馬鹿げたありえないことです。
今回もある出席の方にご自分は真言宗を学び信仰しているのだが家の宗旨は違うという方が見えて、その宗派のお坊さんが来て仏壇にお盆のお飾りなどしてあるのを見咎める一方、「我が宗ではあなたの先祖や亡くなった御身内の為に御経を読むという宗派ではないのだ。」などと言い放ったそうです。
その方は「じゃあ和尚さんは何しに当家に見えたのですか」と思わず訊いたそうです。でも納得のいく答えはなかったといいます。
私もそのお話を伺って全く同じ思いです。
おかしな宗派もあるものです。そんな宗派で拝んでもらう意味はどこにあるのでしょう。
そんなくらいなら私なら神葬祭でもしてもらう方がよほどいい。
もっとも宗派でなくお坊さんの問題かもしれません。
でもお坊さんが具体的には宗派の顔ですから、その方の謂い様で誤解であってもそれは仕方ないでしょうね。
でもまあ、その方は先祖伝来の宗派だからというだけの理由でやっているといいます。
こんなこというと怒られるかも知れませんがもはや信教の自由のある現代では先祖の宗派は先祖の宗派。自分の信仰は自分の信仰です。
矛盾や納得のいかないことをいつまでも受用するほど現代人は仏教に甘くないのです。そこが判っていない。
そこに持ってきて、僧侶によっては「宗派変えたら先祖が浮かばれませんよ」などというアホな霊能者みたいなことを言って、それで人を自宗に引き留めておくことはできないところまでもう来ているのではないか・・・と思います。

でも・・・私は別に檀家制度を否定しょうというのではありません。
当院は基本的に法事や葬儀はしませんので其方はあくまで菩提寺様やその宗派にお願いしてくださいと申しています。
只今のままではもうそういう形は限界に近いのではないかと感じています。
どの宗派であれ大事なのは布教です。
檀信徒をお寺に引き留めたいなら、「宗派変えるとと先祖が迷う」というようなコケオドシや「やめるなら離壇料を出せ」というようなマイナスの理由ではなく、もっと各宗とも自宗の良い部分で積極的にアピールしないといけない時代に来ているのではないのではないかと思うのです。
布教の全く無い仏教などはもはや宗教ですらないといえましょう。