金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

はまりたがる人

信仰の話をあれこれ熱心に聴くのはいいのですがはまりすぎるというか。
もう言ったその通りでないと駄目なんだと思う方もあるようです。
例えば般若心経三巻と言えばもうその巻数あげなかったから絶対に良くないんだとかそういう風に思う人のことです。
律儀なんですかね。夫れとも何でも言ったようにしないと承知しないとどこかいわれてきたのでしょうか?
それは判りませんが、一つには「方法論」に期待しているんですね。物凄く!
方法論信仰です。こういう人にとっては何よりもやり方が大事なんですね。
アバウトなこと言えば怒りかねない。
でも申し訳ないけどそういうのに固執する人は大抵良くなりません。
固すぎるんですね。自由じゃない。
そういう人は例えば「必ずしもそうしなくてもいいよ。」なんて言われればすぐに「じゃあ、どうするのが本当は良いのでしょうか?」とくる。
必ずしも…しなくていい言っているのがそれは止めておきなさいに聞こえるのでしょうね。
そして別な正しい方法があると思っている。
確かに加行なんて言うのは例えばここでは法楽に心経三巻と言ったら三巻です。これは決まりで動かせない。
この時点でそんなの三巻じゃなくても何巻でもいいんじゃないんですか?なんて奴はぶっ飛ばしものです。襟髪掴んで道場から放り出さないといけない。
三巻が正しいのではなく、阿闍梨のいうとおりにするのが正しいのです。
でも信仰というレヴェルではそこまではいらないです。
そうやって何かに固執しても無駄なのにね。
真言は何回読むのとか、線香は何本立てるのとか、すごく熱心に聞いてきますが、ありていに言えば好きな数立てて、好きな数唱えればいいのです。何回唱えたから叶うとか、何本線香立てたからいいとか、そういうの関係ありません。