金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

拝めば拝むほど・・・

もう花まつりですね。月末にはゴールデンウィークであっという間に一年の三分の一以上が御終いです。早いよね。
さて今日は御病気に苦しむご家族の為に聖天様を信仰している方の悩みです。
うちの信徒さんでは無く、頂いたお手紙ですので概略だけですが、その方の御話ですとどうも拝むとその後でかえって悪くなるように思うというのです。拝めば拝むほどにそうだという。
聖天信仰をしている人から言うと「なんて罰当たりなことを言うのだ!」という人もあるかもしれません。
でも拝むと悪くなるというその感覚は否定できないと思います。
勿論、「聖天様のせいなんかではないよ。」という聖天信者の多くがそう思うでしょう。その気持ちもわかります。
でも、皆さん聖天さまを拝んだ後で病気が軽くなれば普通は御加護と思うのでは・・・?
では逆に悪くなったらどう思うのでしょう?
あっさりやめれたらいいけど、聖天様信仰は複雑なだけにそうもいかない人は苦しいですよね。
これ以上信仰を進めて何かあったらどうしよう。でも辞めるのも障礙があるかも・・・こうなると信仰をするも地獄,辞めるも地獄です。
私のようなアンポンタンでも40年近く聖天様と生きていますので信仰をする色々な人も見てきたし、いろいろな信仰の悩みも経験しております。
私も聖天信仰はじめたころは本当に辛いことが色々あった。
その当時は業が深いんだ。業の洗い出しだったと解釈していました。
でも辞めなかったのは私の信仰が強かったから・・・いいえとんでもない、三毒の煩悩が強盛だったにすぎません。
何とか聖天様でご利益もらってやる!という強い強い執着だけあった。
もう意地です。だからどんなにひどいことがあってもやめたくない。
辞めたら聖天信仰は間違いだということになる。密教も。
私の内面ではそんな意識があった。
でも、もういい加減くたびれました。先が見えないのでさすがにやめようと思うこともありました。でもそんな時には必ず聖天様が声かけてくれたようなことが出てくる。「おいどうした?」と。
今考えるとその当時は聖天様を拝んでいるつもりで私のよく言う「毘那夜迦信仰」をしていたのですね。つまり「交換条件信仰」。これは原理は西洋の悪魔崇拝と一緒。眼の前に聖天様はいるけど実は別なもの拝んでいるのです。
無論、本尊様はみていてくれたのでいよいよとなるとお声がかかる。
意地でも辞めないからこそ今がある。
でもそうやって長い間聖天信仰してきてどうでしょう。世間でいうようなお金持ちにもならなかったし、才芸の優れた人物でもなし、名僧知識はもちろん徳の高い人間というほどでもない私。
でもそれが本当です。一時かりそめにイリュージョンや花火の様な御利益なんてあってもそんなのしょうがない。
私の場合、そのイリュージョンも花火も無いです。無くてよかったと思う。
そこは御加護があった。
毘那夜迦の作用にはそういうイリュージョン的なご利益くれる面と障礙とふた通りの顔がある。
結局、聖天様は自分の手持ちの能力を開花させてくれる存在であり、10ある能力なら7や6じゃなく10全部を開かせてくれる。
でも無いものねだりは無理なんですね。手持ちが10なら10だし,100なら100です。いくら拝んだからと云って10が100にならない。
それを100にするのは自分の精進のみ。それがあって初めて御加護が働くのです。
私、一介の凡夫として「聖天信仰をしてきてよかったですか?」ときかれたらどうでしょう。
そういうと良いとか悪いじゃなく一面、私は聖天信仰するために生まれてきたのかなァ・・・と思う。
生きるためにしたのではなく、これをするために生かされてきたのかもしれません。
信仰にはそういう一面がある。
私は恥ずかしながら独り身でわからないですが、夫婦ってどうでしょう。
長年連れ添って御夫婦には最晩年になると「ああ、私はきっとこの人と出会うために私は生まれてきたのかな。」「この人だから私のパートナーになってくれたのだな。ありがとうね。」という思いがあるようです。
勿論長い人生、山あり谷あり、恨みもありでしょう。なんでこんな人と結婚したのかという思いをしたことも一度や二度じゃないかもしれない。
子供がいなけりゃ別れてたという人も結構いますね。
でもそんな夫婦でもなんだかんだで最後まで別れないならしまいにはそこにいくように思います。
別段、凄い理想の人と結婚したわけじゃなくても、全然ラブラブじゃない夫婦でもそうなるのは、結局本当のこと言うと誰でも自分がいとおしいんです。人じゃない。
言い換えれば自分とは「自分がすごしてきた時間そのもの」なんですね。
その人生という時間な流れの中で長く一緒に過ごしてきたら父母も夫婦も子供は勿論、他人だろうが男だろうが女だろうが犬だろうが猫だろうが趣味だろうが…それは自分の一部なんですね。
それ抜きに自分は語れない存在。
だから私は飼っている鳥や動物が死ぬと「今までいてくれてありがとうね。私のところに来てくれてありがとう。」と思って送ります。
彼らも私の時の一部。
人間は物じゃなく、時なんですね。わずか数十年の間、地上にあるだけの時間限定の存在です。

勿論、聖天信仰は私の一部です。
だからもうやめるとか、やめないじゃないんですね。
そういうとこまで来たら「迷っているんです!この信仰を止めていいのかどうか」と聞かれれば「辞めててもいいし、辞めなくてもいいでしょう。」となる。
結婚で言えば「もうこの人と一緒になろうかどうしようか?」「こっちの人と結婚した方が良いかも・・・」とかはとっくに終わっているんですね。そういうレヴェルじゃなく、ただ聖天様と生きる。
極端な表現をすると、地獄にいっても聖天様と一緒なら・・・ということです。
信仰してそこまでいくのかいかないのかは人の自由と思います。
ご利益欲しいのは皆そうでしょう。特に生き死にのこととなればなりふり構わないのは誰でもそう変わらないかも。
だからジタバタするのもいいかもしれない。
ご利益薄いからやめるもありでしょう。
あちらこちらといろんな神様にすがってもいいかもしれない。
限定された持ち時間のなかで何でもやってください。
それはあなたの時間なのだから。
だけど私のように意地でも「あなたから助けてもらいたい」というのもありかもしれないですね・・・。