金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

どこまで儲かれば良いの?

ウルグアイのムヒカ元大統領の演説で「経済発展の追及」について人間はもっと良い暮らしを持つためにものが必要なのですが、それを達成するために消費と仕事をどんどん増やさなければ行けない計画的陳腐化や底を知らない消費主義社会にイエス言ってはいけない
という言葉がありました。元左翼ゲリラだった彼の発言ですから資本主義の否定があって当たり前だという人もいるかもしれませんが、端的に言ってこの発言はダライラマ猊下の「経済の発展には必ず限界がある。」といわれるのと同じことだと思います。
大変味わうべきことだと思います。
御祈祷の世界も「社運繁栄」「商売繁盛」はとても重要な科目です。
「商売繁盛」なんてやらないという祈願所があったら、それは安産とか、治病とか何かに特化した祈願所位でしょう。
一般に人生百般の祈祷をするなら必ずそこには「商売繁盛」の祈願がある。
もちろん拙寺もやっております。
商売繁盛は大いに結構ですが、まことの繁盛とは何かはやはり考えないといけない。やたら収入が増大するのが良いのでしょうか。
若しそうだとしてもそれがその事業の従事者全体にどう反映されるか?
亦顧客にどう反映されるかは大変重要です。ムヒカ氏は言います。
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。
此処は大事です。
儲かれば儲かるほど良い。だから祈願所もそれだけを、「儲け」という結果だけを考える。

確かにお金は不幸の解消には多くの場合抜群のパワーを発揮しますね。
でもお金即幸せではない。
だけどいつの間にかそこが忘れられている。行者がいっしょになって切りなく、際限なく「もうけ」を追及する。
悪くするとこの人も儲かればたんまり御礼が来るというニンジンが下げられた馬状態。それをあてこんで一生懸命祈る。
これは少なくとも寺院のやることとしてはどうなのかなと思います。
儲けを祈って悪いというのではないがそれだけじゃ不足がある。そこになんらかの仏法が説かれていないといけないと思うのです。
とかく大口の信者さんというのは企業家で儲かっている人。だから祈願所とそういう信者さんを結び付けているのは「もうけ」という現世利益のみになりやすい。
儲かれば御礼をする。だから大事にする。儲からないと余所へ行ってしまい寺の収入が減るという構造がそこにありますね。
下手すると企業家の方が威張って。坊主が説法するどころか、逆に教えを坊さんがかしこまって聞くような形になってしまう。
勿論、そういう傾聴させて頂きたい伺うべきお話を持ってる立派なお方も沢山いますけど、そういう人は自分からあまりべらべらとは言いません。
坊主が「太鼓持ち」みたいなご機嫌取りに終始して「もうけ」という結果を出すことのみに専念する。
それじゃダメでしょう。
むしろこういう資産家を仏典でいう「長者」と言われる人格者に導くのが坊さんの役目なのです。
祈祷するに値しない企業家は初めから「もうけ」のみをいう。
まえおきに自分の事を「俺ってすごいんだよね・・・」というような自分や資産の自慢をシコタマしてかましておく手合いです。
「聖天さんてすごいんでしょ。聖天さんで祈祷したらホント儲かるの?儲かるなら頼むけど・・・。」
「さあ、どうだかわかりませんね。やってみないことには。」
こんなこというと顔が曇る。ムッとする人もいます。
でもこれは本当のことです。
私がそっけない理由。それは此れっていつも言う交換条件信仰を持ちこんできているわけです。「毘那夜迦信仰」です。
こういう人は「毘那夜迦」しか感応しない。
レヴェルが近いから。
無論、お浴油すれば眷属だって喜ぶから感応はします。
でもこういうの「是非やらせてください。」とはいったことはりません。
こういう手合いは私は厄介なので基本的に歓迎しません。
何か教えようとすると嫌がるしね。話聞きません。生意気と思うんでしょうね。「お前は能書き言わずに拝んでいりゃいいんだよ!」ということでしょう。
最近はもうだいぶ年とったからそうでもないけど、26歳から祈祷してますからはじめのころはそれこそまず、占いで当てて見せたり、現象出して目に物見せないと話なんて全然聞いてくれなかった。

最近ではそういう方には「そうですねえ。昔から○○の聖天さんはご利益凄いと聞いていますからそこが良いのではないですか?」ということもあります。