金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

已作の罪は敢えて覆蔵せず

,最近、義理の父親と嫁が肉体関係ができてしまい、困ったあげく生まれてきた赤ちゃんを殺すというとんでもない事件がありました。
困った嫁の相談をこの「狒狒おやじ」は退けたといいますから、はじめから後先考えない行為であることは明白です。
ここまででも「もってのほか」のこととすべきところを正直に吐露しないために、赤ちゃんを殺害するというさらに痛ましく凄まじい最悪の結果となりました。
金光明最勝王経の滅業障品に「已作の罪は敢えて覆蔵せず、未作の罪はこれを作らじ。」ここに懺悔の基本があります。
この父子も敢えて勇気を出して恥をさらす覚悟があれば一族や近隣の冷たい視線や罵倒は浴びても、殺人者として日本中に名前も顔も知られることまではなかったに違いないのです。
譬え一族、知人から指弾され、町に住めなくなっても人を殺し、牢獄に繋がれることまではなかったのです。
悪事は即座に懺悔しないと大変なことになります。
悪を培うことになります。
悪を隠すために百の嘘もつかないと成りませんん。大きな悪ほどそうなります。
そうやって運がよく隠せたと思っても実は先行きは運よく・・・では到底ないことになるのです。犯した罪がばれない。
そうなればさらに悪事が平気になって、ますますやるのが関の山です。あるいは他の悪人に弱みを握られて永遠にゆすられたり、悪事を強要されます。その方がはるかに恐ろしいことです。
殺人も窃盗も汚職も万引きもみなそうです。
この父子もさらに関係を重ねて、ばれねば良いということになればまだまだうまれてきた赤ちゃんを殺したかもしれません。
しかしながら殺人や窃盗でなくても全く罪のない人というのはいないのです。

それをただちに懺悔できるということはその人の真の人間としての質の高さを表わすものでしょう。
そして、どんな人間でも自分が侵した重大な罪はいつか語らずにいられなくなるものです。
無懺の悪人でさえそのようです。
罪の語源は神道に言わせれば「包み」であるそうです。自己の神と等しい魂を覆うものが罪なのです。
仏教的には仏性です。宝の玉が汚泥におちても宝の玉自体は穢れません。ただ拭いたり拭うことは必要です。
仏性は内在せる性質ですからそれ自体は理屈の上から申せば行為の如何により増減はしません。
ただ、一闡提のようにまったくそれを現さず、ないかのような人生を送る人間はいないわけではないでしょう。そういう人は時として死刑台の露となりますが、・・・内在の仏性はないわけではありません。
とはいえ罪は罪ですから死刑になっても仕方ないでしょう。
はえてして自分の罪を言いたくてしょうがなくなるのもそうです。
人は大日経に云う「如実に自心を知る」を求める内なる心があります。
自分を知りたい。そのためには他者の反応が不可欠なのです。
だから自分のことを語りたい。
「俺が人を殺したのにはわけがあるんだ」といってみたいのでしょう。
自分を肯定したいのです。そうなら自分でそう思っていればいいようなものですが、でも無条件では肯定できないので口を開くわけです。
誰かに聞かせたい。聞いてもらいたい。それが人間です。
それは「良心」というような表面的な意識以前に、誰しもが持つ内在する人間性に対する矛盾の想いがそうさせるのだと思います。そこに何ら矛盾を感じなければ告白でもなんでもなくそれは日常の世間話になるはずです。
幸いにキリスト教会では誡告というのがありますから、罪を神父なりに聞いてもらう習慣があります。つまり懺悔の受け皿がある。これは立派なことで
す。
そこに行くとお寺のほとんどはそんなことは受け付けません。「そんなのは
警察に行って言えばいい。」ということになる。
しかしながら懺悔はキリスト教のみのものではありません。
寺院でも是非そうすべきですし、罪を隠すことは自分を守ることにはならないことを教えなくてはいけません。
それが犯罪になるようなら自首を促し、必要なら警察にも同道します。
是非そういう習慣を仏寺でも作りたいものです。