金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

死について

昨日久しぶりに弟子のS君と会いました。
彼は最近NLP神経言語プログラミング」のトレーナー目指して猛特訓していますが、そんななかでグリーフセラピーの話が出ました。
グリーフセラピーというのは亡くなった人の遺族の為のセラピーのようにいわれるのですが、そればかりでなく、死を間近にしている方へのセラピー。その家族へのセラピーも含みます。私も以前その道の専門家として有名な大河内先生のセラピーセミナーを受けました。とてもよかったですね。
どんなにセラピーしても死は悲しいには悲しいのですが・・・。
大事なことは諦観がうまくできるかなということですね。
思うに死は未体験の体験と言われますが死を迎えることだってそうなんです。
しかも誰でも例外なく死はやってくるのですからこれはとても大きな課題なのです。
死なない方はいません。
恐縮ながらこのブログをご覧の方もあと50年もしたら何人の方が生存してていらっしゃるでしょう。
あなたいかがですか?
私は子供のころから死ぬのが怖くて怖くて怯えていました。変な子供ですよね。でもいつかは死ぬのだから皆死刑宣告されているのと同じなんだと思っていました。この心はやがて私には宗教への関心に繋がったと思います。
死は絶対来るのだから怖い。それはそうでしょう。でも普段は普通の人たちは死ぬことはあえて忘れて生きている。それが私にはできなかった。
子供や孫がいれば命の引き継ぎを感じられるという人もいるでしょうが、だからそれだけで安楽かといえば死はそんなに甘くない。
死を迎えることの怖さは痛いとか苦しいという肉体的な苦しみもありますが心の苦しみはたぶん「孤独」ですね。
一人で死んでいく誰とも共有できない淋しさ、怖さです。
しかも多くの死を迎える人の場合はそれがあまり客観的にわからないので重要視されない。
苦しがっているとかは判りやすいけど心の中までは判らないからしょうがないのですが。
でもこれが本当は大きい苦しみなのではないでしょうか。
私はある人の病気を見舞って苦しい息の下から何か言われるので近くに耳を寄せたら「羽田さん。怖い。助けて・・・」といわれたことを覚えています。
怖いんですね。一人で死んでいくことが怖すぎるんです。
そうでしょうとも。
一遍上人の歌に「六道輪廻の旅路には訪う人もなかりけり。独人生きては独り死す。生死の道こそかなしけれ」とあるままですね。
でもそんな時に信仰があるか、ないのかではやはり違うように思います。無論信仰があったとしても死は到底受け入れがたいものではあるのですが、昔、あるお坊さんから「浄土信仰の人は死に顔がいい」という話を聞きました。
その人は浄土系じゃないのですけどそういわれます。
死んだあたと素晴らしい世界があると思うなら、怖いばかりではないかもしれないですね。極楽に行けるなら・・・希望が生まれます。
世の中の仏像で一番多く作られたのは極楽教主の阿弥陀様です。
お釈迦様より多い。
それだけ多くの人が死という問題を迎えてこの仏様をたよりにしてきたということですね。
誰も知らない死を迎える人の心には「阿弥陀様」の存在がやはり響いたということでしょう。
浄土信仰の最もいい点はここにあるのだと思う。
だから元気なうちは聖道門、死を間近にしたら浄土信仰があるんです。
その点、朝題目の夕念仏の天台思想はいいなと思います。
人生の夕べにも念仏がきっと必要ですから。