金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

大乗仏教で大事なのは

大乗仏教はどこから来たのでしょう。学者でもない私にはわかりませんがおそらく部派仏教の中で従来の在り方に疑問のある人たちが起こしたのかもしれません。
大乗以前は「阿羅漢信仰」つまり、仏陀のような救済者にはなれないけど個人的には悟りを完成した人になること。
此れだって悪くない。悪くないどころか、これは大変なのです。
阿羅漢になったかどうかは、自分で「悟りました」なんて言っても認められない。
悟った人の証が必要です。
それが六大神通。ウィキペディアではこうなっています。
  • 神足通 ( じんそくつう ): iddhi-vidha-ñāṇa) - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海を飛行し得るなどの通力。
  • 天耳通 ( てんにつう ) (: dibba-sota-ñāṇa) - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりする超人的な耳。
  • 他心通 ( たしんつう ) (: ceto-pariya-ñāṇa) - 他人の心を知る力。
  • 宿命通 ( しゅくみょうつう ) (: pubbe-nivāsānussati-ñāṇa) - 自分の過去世(前世)を知る力。
  • 天眼通 ( てんげんつう ) ( : dibba-cakkhu-ñāṇa)/ 死生智 ( ししょうち ) (: Cutūpapāta-ñāṇa) - 一切衆生の過去世(前世)を知る力[1]
  • 漏尽通 ( ろじんつう ) (: āsavakkhaya-ñāṇa) - 自分の煩悩が尽きて、今生を最後にさらに、生まれ変わることはなくなったと知る力。
さらに道教の「出神」のように「意生身」というアバターまで作れると「沙門果経」いいいます。
沙門果経というのは「沙門になったらこうじゃないと」というお経。
こうした超能力が無いと完成した沙門(僧侶)じゃないんですね。
日本のお坊さんはほぼ全員ダメ。
マア、霊能や超能力あるお坊さんはけっこういるけど仏教では漏尽通無いと意味ない。
それ以外の五通はバラモン教やほかの宗教、苦行仙人でもあるといわれる。
まあ自分で漏尽通も含めこういうの全部できますといっている人はいるでしょうけど・・・・
向こうは専ら瞑想しますけど上座部のそういう阿羅漢に比べたら禅の師家なんか道元さん、栄西さんも入れてダメ。
道元さんなんて中国の高僧に比べたら「日本の大師と言われるような連中は石や瓦欠けみたいなものである」とまで言っているけど、インドの部派仏教から見れば道元さんだってたぶん「石や瓦欠け」みたいなものなのですね。

よく釈迦の原点に返れなんて言っているけど、少なくとも大乗より上座部が原点的です。わかってない。
日本のおえらい仏教学者の先生は原点に返れば仏教は哲学そのものなんだと思っている。神秘的な所なんか仏教にはないと思っている。
文献研究で自分のすきなとこだけほじくっていじってるからそうなるんでしょう。でもそうはいかない。
「仏教に不思議なし」なんて言葉はつい最近の言葉。こういう阿羅漢信仰よりよりずっとあとなのですね。

多分、修行者の「こんなの無理だ!」というところから「大乗」はうまれたのではないのかと思うのです。
だから大乗仏教は普通の人でいいんです。
超人になんかならないでもいいんですね。
普通の感情持って普通に喜ぶ、泣く,怒る・・・でいいいんです。
私はそう思います。
そこを妙にいじってしまうと私の何倍も頭のいい人がサリンまいたりする。
それで自分は正しいんだと思う。
しかもマンジュシュリーだのアーナンダだのホーリーネームだとか名乗って「聖人」の仲間だと思っている。
だから凡夫には分らないけど町中にサリンまくのは大事なんでしょうね。・・・・
まずいでしょう。これ普通が無くなった結果です。
普通でいいんです。
凡夫として生き、凡夫として死んでいい。
そうでないと私なんかにゃとっても無理ですね。聖人でもないし、超人でもない。源信さんの「横川法語」では「妄念はもとより凡夫の地体也。妄念の他に別の心はなきなり。」
ありがたいお言葉です。
凡愚の衆生、下根劣恵の衆生です。
私は信仰としては浄土教でなく舎那業(密教)を選択した人間ですが、どこまでも凡夫のための凡夫に依る凡夫の密教でしかありません。
ただ仏さんに学ぼうととぽちぽち歩くだけ。ただ大事なのは慈悲だけです。
伝教大師でさえみずから塵禿の有情、低下の最澄と言われているのですから。まして私に限って言えば仏陀や阿羅漢よりむしろワンコやニャンコに近いそういう衆生です。
でも、そういうお気楽な大乗思想こそなにより大事なのではないでしょうか?