金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

護身法

去る15日と18日にわけて居士仏教の方たちに護身法の伝授しました。
居士全員が受けられてよかったです。
護身法は密教のアルファでオメガです。
初歩の初歩ですが、実はここにすべてがある。
内容的に詳しくは言う事は出来ないですが、はじめ「浄三業」といって身口意の三業を浄めて「法の器」になるわけです。
素敵な料理を盛っても器が汚れていては台無しですからね。
その後に如来、菩薩、明王という順で全て暮仏が現れる印を結びます。
これは要するに曼荼羅になるのですね。自分が。
だからこれは凄い事なんです。本当に。
どんな行法でもその最後には護摩だろうが浴油だろうが、この浄三業だけを除いて護身法をします。
何故なら全ての行法は実は意味の上では「浄三業」にほかならないからです。行法そのものが浄三業にほかならないので敢えてそれを結ばないということです。
だから護身法の「浄三業」というのは全ての行法のダイジェストでもあるんですね。
そうやって仏部、蓮花部、金剛部の印のあと最後に軍荼利明王の鎧兜を付けて身固めする。
この考えはヒンドゥーから来てますね。
神々の「カバチャ」と云って鎧を着る。「カバチャ」を讃える。そういう歌もある。
鎧兜と云っても敵対の心ではなく、これは大慈大悲の心で着ける鎧兜ですから
あくまでそういう武具を付けるのは密教では内なる煩悩に対峙するためです。ここは難しいんですがそうでないと相対に堕することになる。
勝ち負けができる。
勝ち負けのできないところへ行かないと絶対の防御にはなりえない。
まあ、理の上ですがそういうことなのです。
だから何か悪霊や悪魔と戦うために着けているというのが本儀じゃない。
そういう「敵」を敵と見ないことがそのまま甲冑になると考えます。
勿論、実際の霊的な攻撃も防ぎますけど、その辺が判っていないと普通の武装のつもりでする。それはちょっと違うんですね。
驚いたことにある勉強会で「私はちゃんと護身法してるんだけど、隣の人ができてないので悪霊が来て迷惑したんです!」なんてトンチンカンなことを堂々という事云う人がいたらしいけど、…人は関係なし。自分がちゃんとしてりゃ悪魔も悪霊もこないのに。
この話聞いたとき、いってみれば、「隣の人がチャンと兜をかぶらないから私に矢があったんだ」なんて言うのと同じバカさ加減で空いた口がふさがりませんでした。「本人自分でいってる意味わかっとんのか?」と思う。

そういうのはもう法を授かるレヴェルじゃないんですね。
失礼ながら密教やる器じゃない。
これは極端な例だと思うけど学んで返って毒になる人もいると思う。
だから誰でもできるわけではないのが密教の弱点。
純粋には大乗というべきかどうかというのもそのへんにかかっている。
上とか下とかでなく向いている人とそうでない人がいる。
でもこれをいうとほかの仏法でもそうですね。厳密には。
私なんか密教なければ仏教でなく神道選んだかも。
マア、あえて大乗と区別して金剛乗という言い方も存在していますけど、インドと違って「密教は僧侶のもの。在家が密教修行なんてとんでもない。」という方がいる日本仏教では大乗といえるかどうかはそのへんがますます???かも。
むしろ教化の面や加持祈祷という宗教活動が大乗的と言えるかも。でも修行の実践はできないとなると、そこのところの意味が違いますね。
元々の意味から言えば大乗というのはその教えで救われる側というのでなく、誰もが仏教自体を修行できるという意味なのですから。
別に私は密教はそういう意味で大乗じゃなくてもいいんだと思う。
実際一国一人の法なんてあるんだから誰でもやれるスタンスではないことは明々白白です。

大昔、学生の頃ですが、ある親鸞さんの信仰をしている人から「密教なんて親鸞聖人みたいなエライ方がやってもできないと言っているのにアンタみたいな者なんてできるわけないでしょ!」といわれました。
親鸞さんには向いてなかったんでしょうよ。密教
私はたぶん向いてますので大丈夫です。少なくとも親鸞さんの信仰よりは向いてると思うね。」と云ったら烈火のごとく怒った。怒った!
この人みたいに人にゃ平気でズケズケ偉そうにモノ言うくせに言い返されて即怒る人がいるのは意外ですね。 こっちがほんま往生しまっせ。
そう言われて折れたのは決して「親鸞さんの信仰」じゃなく、きっとこの方のプライドなんでしょうね。
そこは措いておいて同時に親鸞さんじゃないと・・・という人もいるはずです。私はそこは違うけど。
ナムアミダブ、ナムアミダブ・・・・