金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

因縁を受けるということ

今日は吉野リョータ先生の「ねぎらいワンデイ講座」にいってました。
(ねぎらいに興味ある方はhttp://www.negirai.net/を参照してください。)
「ねぎらい」というのは私が知る限り、どんな人も存在を認めることです。
勿論自分も「ゐの一番」にシッカリ認めます。
そんななかでカウンセラーは自分がクリアリングできていない同じ問題を持ったクライエントに出合うとそれがダメージになってしまうという話が出ました。
これは御祈祷もそうですね。いわゆる因縁を「受ける」ということです。
占いでもそうです。
構造は同じ。自分がかかえているのと同じような因縁を持った人の事を扱うのは難しいものなのです。
但しうまく処理できたら自分の問題も同時にクリアできます。
良くも悪くも両刃の刃です。
勿論、術者だって因縁の問題は抱えています。
それが無い人はいない。勿論私もです。
それでもその影響を受けずに処理できるとすればそれはすべての問題を平等にあつかえるということなのです。
自分の問題も人の問題も・・・。
かなり難しいことですがこれができないと・・・やはり因縁を受けることになります。
五智の内でいえば「平等性智」ということになりますか。
伝統的な教えでは加持は自分がやっているんじゃない。本質的に神仏がしていることなんですが、この考えはレイキヒーリングでも同じようですね。
私は「レイキ」は知らないですがやっている人から「密教ではどうするのか」と聞かれて説明したら「同じですね。天の気をパイプになって相手にながしてあげるだけです。」といわれました。
それでもやはり「受ける」人はいるという。
レイキの悪口を言うのではありません。
密教だって同じことです。
建前はそうでも本当にそうなっているかどうかがミソなのです。
いつのまにか、自分が自分がという考えが強くなると、因縁の種類如何に依らず受けます。
神通広大な人ほどそうなりやすい。
どうしても周りが期待するからね。そうやってつぶれてしまう行者さんは大勢観てきました。
なにがなんでも祈りたおしてでもやる。
で実際答も出すけど・・・・やはり大きなダメージになっていきます。
自分がぼろぼろになっても倒れるまでやらないといけない。行者さんは短命とか末路が良くないというのはこれですね。
その点、私はポチポチ行者だし、あまり無理しては頑張りませんので・・・・大丈夫かも?
人の期待に応えるのが慈悲でもなく、使命でもないと思うからです。
祈ることによって人は自分の形が判る。普通にできること。祈ってできること。祈ってもできないこと。それを知ることは自分を知ることにつながる。
「如実知自心」つまり明らかにおのれ(の心)を知ること。大日経ではこれを悟りとします。
よく祈願の仏教を現世利益どまりというけどそうじゃないですね。捉えかた次第です。

さて、因縁は人のカルマ(行為)によるものだから他人が受けるわけがないという理屈を言う人もいます。
本当はそうでしょう。それは正しいかもしれない。厳密に言えばそういう人とかかわることで新しいカルマが発生しているというのが実のところだと思う。因縁受けるといっても相手の因縁がそっくり来るわけではない。二次派生です。
それでも地蔵尊の代受苦のように引き取ってしまうことはある。
こんな事が出来るのは何故?
因果は実有ではなく本来は「空」だからですね。
ようするに阿頼耶識までに肉薄すればそういうことができる。
阿頼耶識というってもモノではなく機能ですし、そこから働く異熟も「もの」ではないから、「もの」なら処分して動かしてもどこかにあるのですよね。
ゴミをゴミ箱に入れようがどうしようがゴミが「ある」ことにかわりない。
でも、この考えだと「受けます」。問題は消えているわけじゃない。封じているだけ。
神道の「大祓の祝詞」は祓戸三神が罪穢れを持ち出してついにはハヤサスライウシナイテムということになる。
ものなら失い様がない、見えなくなってもどっかにある。
でも大祓では明確に違う。
罪は本来その人の神性をを包むもので「ツミ」というのですから、積極的にあるのではないんですね。この考え方は般若心経と同じです。
本来ないからこそ失ったり、払ったり、除くことができる。