金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

威ということ

大黒天は三天(大黒、弁天、毘沙門天)の中では一番拝んだことないですが
その理由の一つがあまり気に入った尊像が少ない事。
私はあのニコニコ顔の大黒さまは基本的に嫌いな方なので。
何故ならなんか嘘っぽいから。
特にサンタクロースみたいな童子型のかわいい好々爺の大黒天は全然ピンとこない。媚び売っているようにさえ見える。実際購入する人に媚び売って作っているんですね。そういうお像は。
だから拝む気がしてこない。拝むものじゃなく置物やね。
「威」がまるで感じられない。
どちらかというと同じ笑いでもギラッと歯をむいて薄気味悪いくらいの笑いの方がグッとくる。
いいかえればそういう重厚さのあるようなのがいい。
私がもっぱら拝んでいるのはこちらの忿怒のお大黒様
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元々白木だったのを塗ってもらったものです。そういうわけで勿論名作でもないし、名仏師が作ったものでもない。基本的に見せて他人様に自慢するほどの凝った作のものじゃないのだけども私的にはこれは拝めます。
ということはつまり三密加持ができて答えが出るということです。
納得いかない尊像ではそれができ難い。ないほうがマシ。
だけどそれは必ずしも作行の上手下手を言うのではないんです。
たとえば名工左甚五郎作の大黒様というのがあるけどあれより私はこちらの方がピンとくる。
拙寺にはほかに普通の大黒天もあれば御山の阿闍梨さまに譲ってもらった勝軍大黒天、江戸時代の作行の良い三面大黒天もあるけど、どれもやたらにニコニコと笑ったお像はないんです。
これはたとえ弁財天のような女尊でも怖さのない尊像はダメですね。
福というのは厄の裏返しなんですね。福は実は危ない代物なんです。
言い換えれば福徳神でも逆の要素が少しは無いといけない。
これは明王系だからというのでやたらめったら怖く作ってあるのも駄目ということ。
光と影と両方がないといけない。
最近のお仏像は光なら光。影なら影しかない。だからどんなに奇麗にできていても人形みたい。
明王も怖いだけのただ呑んだくれのおやじが怒鳴っているようなのは全然ダメ。
「やくざ」みたいなのはもっとダメ。品が無い。怖いだけで威厳が無い。
「やくざ」なんて人間のクズですからね。
最近刺青してあるお不動様のお像をみてあきれかえった。
どっかの組の事務所にでもおくのかしら?
愛染明王などは本来明妃ですから本当に良いお像には一種の妖艶さがある。不動尊にも恐ろしいけどそれでいて惚れ惚れするようなそういうところがある。
福神でも忿怒尊でもそこに「威」というものが無いと仏像にならない。
観音様もそう。慈悲だの愛だのばかり強調するとまるで揉み手してイカモノ売っているセールスマンみたいな気色悪いのができる。
観音様なら「悲体の戒めは雷震の如し」というのが尊像のどこかに見えないといけないと思う。本当に上手というのはそういうこと。良く彫れているとかではないんです。
(ちなみにただ彫るだけなら日本の職人はもう中国の職人にかないません)

或いは如来なんて悟った御顔というより仮面うつ病のような無表情に作って、なにがあっても心が動かないのが悟りだなどと彫っているアホが思っているから、そういうような極めてつまらない尊像を作って得々としているのでしょう。
光と影、剛と柔、もっといえば暴悪と慈悲、両方ないと救済の力なんてありはしない。「威徳」というのはプラスとマイナス両方踏まえて初めて生まれるものです。

これ、変な話ですが・・・私の中では一切のいかなる戦いもすべて否定する平和を絵で描いたような憲法九条が大嫌い (本当は九条以上に凶暴でヒステリックな平和主義者?である極端な擁護派の皆様が大キライなんです) なのも、そういうニコニコ顔のこの上なく優しそうな大黒さまが嘘っぽくてきらいなのとひとつ根でどこかつながっているんだと思うのです。
理想論というより「建前だけの耳触りの良いウソ」だから嫌なんです。
私には国会周遍でさわいでいる方々のお話しは「セキュリティなんて考えるから他人様が不信感を持つの!そんなの止めて家のドアなんて開け放しでいいの。警報も番犬もいらないの!」と言っているように思えます。
そして「いつもニコニコして思考がポジティヴならば御商売は必ずもうかるんです!否定的なことなんて考えることないんですよ。」と信じて疑わないポジティヴシンキングバカも同じように見えてならないのですが・・・。
ただニコニコしているだけの大黒さまって同じ風に感じる。安っぽいね。
口悪くて済みません。
多面多臂の尊像を指してある大徳はいわれました。「羽田はん。これ見てごらんなさい。これ普通に言ってみればマアお化けでっせ。・・・・だけどな。アンタ。ほんまゆうたらお化けを拝まないけません。密教の大事なんはそこや。
今の世の中は嫌なものにフタ、臭いものにフタ、ゴミはどっかにほかしても、それ続けてたらしまいには目の見えるとこに出てくる。
臭いものにフタのはあきません。ほんまもんはそんな見場の良いもんばかりと違います。そこんとこ正面から向き合わないかん。」