金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

修養と超能力

世の中には仏教への関心は強いけど修養に一向眼が行かない人がいます。
要は仏教は人間教育なのですが自分の貪りや愚痴や瞋りには全然目がいかず、何かマジカルなこと、奇跡的なことだけを期待する。
そしてそういう人はひたすらそうしているとそのうち幻覚を起して神仏の声が聞こえたり。見えたりするけど自分の問題はそのまんまです。
本当の霊感じゃない。霊障でもない。ただの錯乱です。
脳内の機能が情けない自分の改造や自分への修養を拒み、代わりにそういう幻覚を引き起こしていかにも自分を特別な価値が付与された人間だと思わしめるのです。
脳って親切ですね。自分までしっかりだまして傷つかないよう保護してくれます。
釈尊が霊感や超能力などを退けたのも実はここに大きな理由があるように推察します。
霊能者や超能力者を訪ねて以下という質問が寄せられたことがありますがそういう人の人格がどうであるかというのは大事なことです。
もちろんそんなに完全に立派な人というのはいないし、本当に立派な人はむしろ傍目からわかりません。陰徳なので。
かくいう私も至ってつまらない欠点多き人間でしかありません。
ただ大切なのは修養という心があるかないかです。
憚りながら私にはいささかなりともございます。
怒り放題。愚痴謂い放題。貪り放題で反省なしではいくら手を合わせてもそこに仏教はあり得ません。
若し、とちくるってそんなになっても修養の心があればじきに気がついて軌道修正できるはずです。それが修養の心というものです。

宗教大国インドなどでもそういうパワーの開けてはいるけどいい加減な人物というのも多いと聞きました。
私も日本でもそういう例の報告を知っています。
立派な人か否かはわかりませんが修養の心があるのかないのかは大事な点です。それこそ伝教大師の言われる「道心」です。
また、何かマジカルなパワーの人がいるというとすぐに群がるのは修養ある人の振る舞いではないでしょう。
少なくともあるべき仏教者のとるべき振る舞いではありません。
仏教は布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五波羅密があって般若への到達があるわけです。
この構成はヤーマ(なすべきでない禁忌)、ニヤーマ(なすべき修養)の考えからインドのヒンドゥー教でもおおむね同じようです。
いわゆる霊障も修養によってとるべきなのです。
そとからとってもらったらまたすぐにもどります。
霊障のある人は強い怒りや悲しみや怖れ、自己否定があります。
これを去るものが本当の信仰です。
でも信仰は嫌だけど霊障は除いてもらいたいという人が多い。養生はしないけど病気は何とかしてほしいというのと一緒です。。
結局そういうのは治らない。口でいってもわからない。だからそういう人には手を付けない。一切やらないのです。
なかには宗教なんて入ればお金が出るから嫌だという人もいます。
要するに信仰の必要性を感じないのですね。
なるほど何をしてもお金は出ます。
人をタダ働きさせない限りはね。
それはそれでオーケーです。
その人の考えだからね。
私には関係ありません。
でもうちには来るべきではない人です。
何度も言うのですが、どんな御祈祷でもそうです。
私自身には加持力つまり、伝える力しかないのです。
もっといえば加持力の「加」は本尊、「持」は祈願する人。その仲立ちの「力」だけがわたしができることです。
私自身には治病エネルギーも気功パワーも超能力も霊感もそういうマジカルなパワーは何にもないのです。
そういう先生がいい人はそういう人を探すことです。
「私ってすごいんです」っていう先生本当にいっぱいいますね。
私は色々著作はありますが「わたしってすごい!」といった本はひとつもありません。何故なら全然すごくないからです。凄くもなんともないものを凄いと言えば妄語になるだけです。
私にできることは同じトレーニングすれば程度の差はあれ誰でもできます。
すごいのはそういうメソッドのある密教なんです。
あえて凄いとすれば密教に出会えた幸運ですね。

そういうわけでスゴイと自称する超能力の先生を頼っていってどうなるかは良くも悪くも私の知ったこっちゃないですけどね。
そういっておかないと「お前がそういうから霊能者を探してたずねて行ってみたけどだまされた!どうしてくれるんだ」なんてクルクルパーはがいないと限らないので念の為。

全てほとけからくるのです。
だから後は御本人がは神仏に向き合って頂けるか否か、それだけです。