今回は恐れ多くも学術用語に刃向かいます。
今回の日光修験の集まりで語った方からたまたま「修験道では雑密の護摩をたくのでしょうか?云々」のといった話題が出ました。この雑密という言葉は純密に対する言葉です。
伊矢野師の話では常に「雑密などというのはおかしい古密教というべきだ。」といいますが私も全く賛成です。
大体がこの雑密というのは仏教者の言葉ではないのです。仏教学者の言葉です。
それも古くてかなりずさんな言葉です。
例えば金剛界は胎蔵界よりずっと遅れて成立した存在です。そもそもインドでは金胎両部思想などないのです。そもそもが金胎両部思想は唐代になってかの地ではじめて成立したいう。いわゆる「唐密」で中国密教なのです。
中国の仏教者は良くこの語を使いますが正しいと思います。
金胎両部思想でないと雑密だとするとインドでは雑密しかなかったことになる。
大日経は所作タントラの最たるものですね。
だから雑密など少なくとも今はないのです。
それを仏教者自身が自分のしていることをは「雑密」などというのは伊矢野師の言うように噴飯ものなのももっともなことです。
たとえば自ら私は小乗の修行者だなどというものは誰もいません。
学者に言わせると修験道はとかく密教よりも古くから我が国にがあるので雑密と山岳信仰が合わさってできたもの…などといいます。初期においてはまあ表現に問題があるとしてもそうでしょうが、修験道は胎金両部はもとより密教、神道を取り入れついには密教とはまた違う世界観を持つものとなりました。
「雑多な密教」などというものは学者の頭の中だけにあるのです。
昔ある有名な植物学者に随行したアナウンサーの話を思い出します。「先生、この草は何ですか?」というのに次々にこたえていく博士。そしてある草を指さして「これなんですか?あ、これはただの雑草ですかね。」といったら、博士は「君ね。世の中に雑草なんてものは無いのですよ。」。といわれたそうです。雑密なんてまるで「雑草」という言葉を植物学でいうようなものでしょう。
昔はともかく、いつまでも実際にも合わない雑密などという言葉を使うのはおかしい。
頭古すぎです。