金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

腐ったものがあればハエは来ますよ


当院では不思議なことに霊的な問題はやらないよと言っているのにも関わらず後からそういう問題を言ってくる人が多いんですね。
それも、これって霊障かも…ならわかるけど、はじめから霊障なんですという決め込みできます。
つまり霊障だという部分は決めてくるんですね。
で、結果本当の霊障はほとんどない。
勿論、いろいろな物事には霊は絡んでくるけど、必ずしも霊の問題が先にあるのではないのです。
そういうのは基本的に霊障ではないので霊なんかいじってもどうもならない。霊的なものはただのトッピングです。
例えばハエが来て困る。ハエをなんとかしたいといって殺虫剤ふりまく。
でもそこに何か腐った魚とかあったらいくらでもハエは来るわけです。
いくらハエを殺しても次が来る。
だから自分の心から腐ったものを放り出さないと問題はハエ云々じゃないんですね。
その腐ったものを放り出すのが「信仰」の学びです。
だけど信仰なんかはしたくない。「そういうのじゃなく霊力とか神通力でやってくれ。」という。
「無理です。そういう霊力や超能力なんか私はありませんので。」
でも、いくら言ってももうそういう頭になっているのね。人の言うことは聞こえない。
すごいのになると「信仰なんてしたらずっとやらないといけないんでしょ?冗談じゃないですよ。」とか「要はお金でしょう?」ってあたかも無駄なこと押し付けて金取ろうとしてるだろうってな調子で怒った口調で物言う人もいました。
それはこっちの言うセリフ。そんな人間を講員にする気はさらさらないです。
そんな人間とずっと付き合う羽目になるなんて冗談じゃない!
こっちからお断りです。

大体霊障なんて振りかざす人は自分がすべきことしない理由を霊のせいにしたいだけの人も結構多いんですね。
つまり本質は「いいわけ」です。
心理学でいう「利得」という奴。本当は霊障の方が都合がいいと思っているから治らないんだね。

大体、いいかげんな霊能者なんて尋ねると「それはあなたの言う通り、貴方が悪いんじゃなく全て霊の障りのせいです。それは大変だったね~」って慰めてもらえますし、「悪いのはみんな霊のせい。自分は悪くないんだー!」って心で叫んで自己解放できるし、万一うまくいかなくてもそれは霊能者や行者がボンクラなせいですから、なおらなければ、なおらないほど被害者意識は強化されて、自分を責めないでで済むという構造になっているのです。
悪いのは自分じゃなくて霊なんですって言えば責任はないと思っているんだね。
噴飯ものです。
じゃあ、なぜあなたは霊に襲われるの?って聞くと私って霊感が強いのでとか・・・なんとかくだらないこと言うのが関の山です。
それでも霊能者なんかに行って大金かけて治る場合もある。お金使ったから自分は価値あることしたと思うわけです。
「このへんでいいよね」と自分で自分を許す。
だから治る。
どんな変なことしてるボッタくりの先生でもそれなりの信者がいるのはそのせいです。
「ぼったくる」から治るという構造。ぼったくられてもいいようなお金のある人はそういうとこ行きます。安いと馬鹿にして行かない。
インスタントコーヒーなんか駄目、一杯千円以上しなきゃそんなの飲めないという人たちも世の中にはいますから。
大変なことすれば治るのはそういう構造。お金ないなら難行苦行でもいいわけ。
はだし参り、お百度、寒中水垢離、断食、巡礼、山にこもる。伝統的にはこれです・

昔、「霊なんてつくのは業が深いだからだ!馬鹿だからだ!」「そんなのは最低なんだ。因縁の塊の汚らわしいクズなのだ!」という具合で憑き物オトシする先生がいました。
もう、頭ごなしに罵倒する。怖いし、行くたびにわけ判らず怒鳴るので憑き物のふりしていてもいいことないんで、やめるんですね。
つまり「利得」がなくなる。

昔からある荒療治、縄でしばって煙でいぶすとか、そういう乱暴なやり方。現代ではとんでもないことですが「偽の霊障」なら可能性としては落ちます。
そんなひどい目にあわされるんじゃやっている意味ないからです。
潜在意識がそこを考えて凴霊現象を解除してしまう。
最古の精神病に対する精神療法は我が国では滝行だそうです。
今はそういう風じゃなくて甘ったるいことやっているから長々とやっているわけです。まあ、今更、荒療治はできないですよね。
実際そういうことして患者が死んでしまい逮捕されちゃった行者さんもある。
でもさっきいいったように、痛い目に合うのは肉体じゃなくお金で痛い目に合えば治ることもある。
これはただし金額じゃないんです。
本人がケチなら千円でも痛手だと思う。
実例をあげましょうか?
以前、そういう人で当院のお祭りに付き合うのがお金が出て困るからもうやめたいという人がいました。(夏と年末に各6千円でしたけど)
生活に困っているのでもなんでもないんです。家も持ち家持っている方です。しかも同族会社にいてその家のローン分も加算してお給料ということで頂いているんですね。
どうであれ、私はやめたい人は一切止めません。
自由ですので。
「あ、そうですか?ハイ、わかりました。」でおしまい。
ところが、やめたはずのその人がまたまた電話かけてきて「なんか寝ていると耳元でお経みたいのが聞こえるんですけど・・・・。」とのこと。
講に入ってお祭りに付き合い、そういう費用が出るのが嫌なので霊障はいったんはなくなったわけです。
でも、講を辞めてもう、お金を払わないで済むなら別な「利得」があるからまたなるわけ。
所詮、そういうのは自分で作っているんです。
其れで電話で「あ、そうですか・・・・で、何か御用ですか?」というと
「え!」という感じ。
「・・・あなたはうちはやめた人でしょう。うちでできることはもう何もないですから・・・」といいます。
はっきり言ってそんなの知りません。

宗教家の癖に冷たいですか?
でもそんなのいちいち相手してたらこちらはもちませんのでね。
たとえ私が親身になって相手してもこういう人は決して良くはなりません。
よくなるならともかく同じことの繰り返し。
だってそうなること自体が本人にとって実は意味があることなのだから。
やめるものですか。
今までご丁寧に相手して来て、それはよ~く知っています。
冷たくて上等でございます。
どうぞいくらでも悪くいってください。
そういう方から「先生はいい方ですよね~。」なんて言われるのは背中がゾクゾクするくらい気持ち悪い。
大嫌いです。