金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

無我になるなんて必要ありません

よく中途半端な仏教書には「仏教は無我になることが大事だ」というようなこと書いてありますが、これ大間違いです。
なにもわかっていません。
一知半解の人の書いたお定まりの仏教書なんか読むとそういう馬鹿なことがどうどうと書いてある。
仏教では「無我になれ」などということは言っておりません。「諸法無我」といって仏教の認識論として「無我」なのです。
仏教の認識論的宇宙観です。
つまり無我になるのとか、ならないのじゃなくて皆無我だというのが本当(実相)なんです。
まずここをおさえます。

だから世間の道徳のように私というものを謙虚に引っ込めておけとか、自分より人がまず大事とかは「無我」ではないんです。
これらは道徳として「無私」であって仏教のテーゼとしての「無我」とは直接何の関係ないんです。
良し悪しは別として「滅私奉公」とかは無我とは何の関係もない。
これは階級社会では便利だからよく使われましたね。
でも仏教の無我はこういうの関係ないんです。
だから、うんうんうなって修行してなんとか無我になりたい…必要ないですね。
そういう無我はいってみれば煩悩の一種です。
元から無我なんだから、高僧、善人、悪人、異教徒、無宗教の人、犬も猫もミミズも変わらないんです。無我です。
ただその認識を教えているのが仏教。
無我ということは我が無いんじゃない。とれわられようがないということ。
我にとらわれないのは元々どうしようが捕まえられるような存在じゃないからで、道徳的にとらわれてはいけないからじゃない。
とらわれてみるならとらわれてみなさい。
無理だからということです。
つまり止まっていない。変化し続けているということ。全部が。

川のようなもの。見た目は川だけど水は止まっていないんですね。変わらないものはありません。これが無我です。
じゃあ「私」という認識はどこから来るの?
実はその私という認識だけがいわゆる自分なのですね。
認識だけの存在なんです。
だからつまらない存在ですか?
いいえとんでもない。その思いだけが自分なのですから大事なんです。
宇宙で一番大事です。そこからはじまる。
それがわからないとすべてが屁のような、カスミのような…そんな般若心経の本もあるけど其れこそ人生という上ではクソの役にも立ちません。
この「私」って唯識論でいえば「末那識」という迷いの状態ですが、末那識も含めて真如なのです。だから「転識得智」というのは唯識の用語だけど如来蔵だってここは同じです。末那識がなくなるんじゃなく変容して一つ上の認識になる。
それが悟りです。
ましてや無我ってもう、自分の存在がとらえられない。なにも認識しないとか考えないことじゃありません。
こういうこという奴は本当にどうしょうもないね。
そういう意味での無我なら脳死状態とかナメクジや植物が一番無我です。
無我というのは我の対語でしょう。
我があるから無我がある。
立派な「我」を作るのは無我の認識です。
我を抜きにして修行も仏道も何一つありません。
しかも仏道修行は何かになるんじゃない。
人間は人間です。なにになるというの?知ればいいだけ。
そのための御修行です。
仏教ではいいかえれば「我」のために「無我」の認識が大事なんですね。

私、間違った「無我」のお面なんてつけません。やなこった。
今日もしっかり末那識で思うように生きてまいります。はい。