金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

君子以て虚にして人を受く


「君子以て虚にして人を受く」とは易経の卦の一つ「沢山咸」の象意伝の言葉です。人を受けいれるのには虚であることによって、かえって彼を知ることができるのだということです。
今「義理易」を勉強しています。
前にも少し触れましたが義理易は哲学としての易です。
でも学問的哲学というより実践哲学です。
中国哲学って大体そういう要素が強いですね。
比重は世の中はこうだという宇宙観より、だからどう生きるかの方が重い感じ。
月に一回、飯田先生という方について東京支所長と二人で勉強させていただいております。とても面白いです。
この易経の言葉は実に衝撃的でした。
つまり最初から先入観や憶測のアンテナを張らず、つまり虚心にただ相手をみていくところに真の人物の見極めができるのだというのですね。
全てを自分の尺度やカテゴリーに当てはめようとする試みは真実をみられない。
占いを使って相談なんかしていると。ある意味日ごろから人に対して自分の尺度に押し込めてみようとする悪癖ができやすいようです。
これはあくまで占いが悪いのでなく私が未熟なのが悪いのですが・・・。
割り切れない数のセンチメートルも別な単位の物差しならぴったりくるということがわからず、あくまで自分の物差しで測ろうとする。
もちろん自分の物差しだけを頼っては人の真実は測れませんよね。
それがわかってよかった!
そんなの当たり前ですって?・・・そうかもしれないです。
でも、いつの間にかそういうことが失われて毎日を愚かに過ごしていたのですね。私は。
だからこの易の教えを大事にして最近はなるべく虚心に人と相対するようにとしています。

占いとして易を立てるというのも本来そうした心が大事なんだと思います。
「私は何も知らない、わからない」という心こそが正しい卦をえられる心なのでしょう。
至誠天に通じるというのにもこれが大事ではないかと思う。
自分はこの方のこと、何も知らないんだと思うと人と会うたびにワクワクしてなんか楽しくさえあります。
いままで、ああ、多分この人はこうこう・・・というアンテナはもう根元からポッキリと折ってしまうととても楽で生きやすい。
相手の短気そうも、意地悪そうも、優しそうも、善良そうも全てない。
それはただ私がそう感じる思い込みだけで事実とはなんの関係もない。
心理学の論理療法みたいですが実際とても楽です。こういう考え。
実際問題、なんにも知らないのだからそれで当たり前なんだけど。
今までのインスピレーション働かすのと全然別なことするわけです。
ある意味とても当たり前のことをするわけです。
情報はあくまで本人の語る言葉のみ。それをそのまま虚心に伺う。
これって一番私に欠落しているものでしたね。
飯田先生ありがとうございます。
飯田先生の義理易はユーチューブでもアップしていますから興味がある人は是非探してみてください。
古来、易は人生50代になって学ぶものと言われているらしいけど、私は少し遅かったね。本当はもっと若い30代40代の中間層の皆さん易に親しんでもらえたらいいなという思いです。