金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

どうしても忘れてならないこと

聖天信仰でどうしても忘れてはいけないこと。
それは天部の神様は聖天様も含めて皆、護法神だということです。
つまり仏法僧を守るのがその本来の役割。仏は「ほとけ」。
今の世の中は無仏時代ですからお釈迦様みたいな人間の肉体を持った「ほとけさま」はいません。だから、時空の上の仏である「応身の仏」は神秘体験でしか出会わないですね。
例えば八大竜王は生身のお釈迦様の眷属でした。
だから、諸天尊は専ら空間を超えて時間軸の上での仏の働きである「報身仏」の守護に当たっていろいろな衆生の化度を助ける。
そこへ行くと時空を超えた「法身仏」は守るも守らないもない存在。宇宙と一つだから。天尊も我々もその顕現でしかない。
「法」というのはいうまでもないですが「仏法」です。
大乗の場合は上座部のように滅尽しない。輪廻しながら仏の心を養います。仏の心は仏の知恵から生まれる。
その智慧を得るのには仏法を学ばないといけない。だから仏法の護持が大事なのです。
仏法自体がなくなれば学びようがないですから。
「僧」とは大乗では法を学ぶ人たちです。仏法を規範とする人たちです。
なにも頭丸めた坊さんだけじゃない。広い意味では信徒もみな同じ「僧」です。
天尊はその仏法を学ぶ人を助けるわけです。
仏法らしきことは一切関心なく、ただ供物挙げて祈ればいいというのは大日経やそれをもとにした弘法大師の秘蔵寶鑰でいえば「第二住身心」で未だ仏法にはなっていない。
鬼神精霊の民間信仰レベルです。
これでは本当の天尊の働きは頂きにくい。
仏縁つくりのためにはじめは霊威を現されますが、それでも全く無関心だとやがて霊験はなくなる。
ただ、供物などでつられてくるのは動物霊くらいです。
そういうパターンに陥っている方は多い。
なんでも金に糸目つけず祈祷すればいいと思っている事業家や資産家の方などには特に多いですね。
まあ、特選上寿司頼む心と信仰とが変わらない。
そういう人は極力相手にしたくないですね。やたら威張っていて人の言うことはてんで聞かないし、なかには仏法のことまでこちらに教えてやるモードの人もいます。一番高い御祈祷頼めばなんでもいうこと聞くと思っている人もいますね。自分は特別扱いされる人間だと思っている方です。
貴方の祈願は普通祈祷でいい。とか十一面様でいいとかいうと怪訝な顔します。
こっちとしては「ってやんでえ!」という気持ちです。
そういうこと言っているからいつまでもビンボー寺なんですかね。
でもこういう人たちで振り回されているお寺もあるようです。
お寺全体のことを考えたら絶対にいない方がいいんです。こういうお方は。
金持ちお断り(笑)?
一銭もなくて祈祷してくれというのもいささか困るけど、こういうのは断る理由がないのでより困ります。
エス様ではないけど、そういう傲慢な人が信仰できるのはラクダが針の穴を通るくらい難しいといいます。

本当は仏教ではお金持ちは徳を施す長者にならないといけない。
世間に有益な資産家が「長者」です。福と徳どっちもないといけません。
でもそうじゃない方はご利益がなくなったんじゃなく。本当は自分が徳を失っている。傲慢なのでわからないんです。
でも、一向にそこに気が付かないので、そうなると、どこそこの聖天様は最近ご利益が薄なったとか、行者に法力がなくなったと、いって方々へ流れて行く。
そうしているうちについに本当に聖天様そのものから見放される。
最悪、ご利益どころか災いになる。これって罰じゃないんです。見放された結果なのです。
愚かなことです。
だから、まず天尊は護法神だということを忘れてはいけない。
まず。第一に仏法に心寄せる人たちの守護者なのだということを忘れてはならないと思います。
仏法に心を寄せる、それにはいろいろな形があると思いますが、たとえば拙寺の場合は一つの方法として「受戒」という形でまず仏教徒になることを強調しております。
世の中にはどんなにエゴに満ちた毒々しい願い、身勝手そのものもかなえてくれるのが聖天様や荼吉尼天なのだと思っている人たちもいます。
そこが聖天信仰の最大の「うまみ」なのだと思っている。
「何でもかなうんですよね?聖天様は!」という前置きで電話してくる人がいますけど、「いいえ、祈願によります。良からぬ祈願は叶いませんよ。」というと「ェ・・・?」になる。
「御願いなんです。あとは一切無理はいいません。だからこれだけは無理無体を承知で、どうしても、どうしてもかなえてもらいたいんです。」というのも本当に無理無体な内容なら駄目です。
無理は無理。
ならぬことはならぬのです。
それについて、いまさらつぶさにコメントしたいとは思いません。
でも、そんなスタイルは極端に言えば西洋の悪魔崇拝のようなもので、少なくとも仏教の聖天信仰や荼吉尼天信仰じゃないですね。
本当の信仰はそういうエゴイズムや身勝手を振り返ることからしか始まらないでしょう。