金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

影を追わない生き方

猫ちゃんに懐中電灯のような光のポイントを作って動かすと、何かの獲物のようになって必死に追いかけます。
人は無邪気なその姿に微笑むかもしれません。
でもこれって人間でもやっている方がいるんですね。
そしてそれは全然ほほえましくないんです。

よく善良なまじめな人がふとしたことで人殺しをしてしまったり、思わずつまらないことでカッとなってつかみかかって相手にケガさせたり・・・。
それです。
いずれも些細なことでスイッチが入ってしまう。
これを「投影」といいますね。
例えば交際した男性に捨てられて過去にひどいダメージにあった女性がいたとします。
彼女の中ではその問題が引きずられていると、相手が変わってもちょっとしたことで、だました男性によく似た部分から、それを投影して激しく相手を攻撃してしまったりするんですね。昔からいうアツモノにこりて膾を吹くという奴です。
本人に言わせれば今度こそ前みたいな目にあわされてたまるものかと必死ですが・・・
攻撃された方は気でも狂ったのかと思うでしょう。
それで交際はまたまた駄目になる。
相手変わって主変わらずという奴です。これも昔からいうよね。
で、当の御本人はというと反省するどころか・・・なんで私ばっかりがそういう変な男性に出会ってひどい目に合うのかと運命を呪い嘆く羽目になるのです。
其れで恋愛運悪いとか、自分の人生が呪われているとか言っている。
違います。
それはたとえ、運の問題だとしても、不運に見舞われている訳じゃなく自分が作っている運なのですね。呪っているのはほかならぬ「あんた」です。
会社でも私が勤めると勤め先にいつも必ず私に意地悪な人がいるんですという人もそれかもしれないんです。
そうなると今までの意地悪された分も全部まとめて相手にぶつけちゃうんですね。そういう人は。
過去の恨みもすべて投影するからあとに行くほどひどくなる。
相手がだれかはもう見えてないんです。
今度こそやられてなるものか!コテンパンにやっつけてやろうと思うから。
リベンジです。
でも相手は今までのどの人とも別人なんです。
投影ではそういう判り切ったことがもうわからなくなる。
そういう人はちょうど領空に入ったら旅客機だろうが渡り鳥だろうがすぐに高射砲で撃ち落とす国みたいなものです。
相手からはなんて野蛮で凶暴なんだろうと思われてしまうけど、本人はまたえらいことになる前に自衛したと思っているだけです。
だから恋愛でも失恋すると「また俺をうらぎうるのか?」とか「また私を捨てるのね?」ということで、この「また」は相手に関係ないのに、ストーカーやひどい場合は無理心中まで図る。
思い込みが激しい。
同時にこういう人はたまたま親切にされるともうそれだけで「今度こそ運命の人かも!きっとそうだ。」と過度に期待してしまう傾向も強いんです。
もっと些細なことだとデパートで買い物して包み紙がうまとまっていないで外れたり、八百屋で買った「ひと山物の果物」が、たまたま一個に少し傷みがあったりするともう大変です。
「私をバカにしているに違いない!」「そうやって人をだまして不良品をつかますのね。」で即お店に怒鳴り込む。
これがクレーマーです。

怖いんですね。
人は凶暴になるのは恐怖によってなるんです。
でも、もしそういう運命を変えようと思うなら「影」に挑んでも駄目なんです。
出会う人はすべて影です。
「影」は決して相手にしないことが開運の第一歩です。
なんか不遇な目にたびたびあっても相手を憎むのではなく、ああ今はそういう運の流れに入っているのだな。じゃあそこから出るまで注意しようというのが大事な考えです。
人を相手にしないで流れを相手にしてください。
よく変な風に自動車だすと行く先々で信号が赤になる。あれと似たようなことが人生にも起きるんです。
別に誰かが企んでいく先々で信号を赤に替えている訳じゃないよね。
でもそれが重なると、急いでいるときなんてイライラしていっそのこと信号器をぶち倒したい様な気持になるのが人間の情というものです。
人生も同じ。
そういうことが起きます。
本当はそれはあなたの過去のカルマが形を変えてきただけなのです。
繰り返し言います。「影」は相手にしないこと。
もしそうすればあなたが悪者になってしまうかもしれませんよ。
ご用心ください。
意地悪だろうが人のうらぎりだろうがすべて影にすぎません。
自分のカルマを憎んで人を憎まず。
カルマと思えば不必要に人を憎んだり攻撃しないで、心穏やかに生きられますね。