金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

婆子焼庵の話

いきなりですが修行者は性にどう向かい合うべきなのか…なかなか難しい問題です。
「婆子焼庵」という公案があります。
公案というのは禅宗、とりわけ臨済禅で珍重する悟りの程度をはかるための問題集のようなものです。中国の碧巌録という本に出てくるのです。
ざっというと、これは禅の修行僧の面倒を見ていたおばあさんが、かの僧の修行の程度を見るため、自分の娘を修行僧にだきつかせた。
そうしたらかの修行僧は「枯れ木が冷たい岩によりかかるようなものだ。季節はいつも冬の心であって暖かみなどない。」とむげに言い放った。
それを聞いた婆さんは「なんて修行の浅い奴だ!」と怒って、僧侶のための草庵を焼き払い、その僧を追い出したという話です。
「なんでそうなるのでしょうか?」というのが問題。
仏道修行者である僧侶に色気は禁物なのは昔は当たり前です。
今はどうだか知らないけど。

それなのにお婆さんはどうしてこの僧侶を全く評価しなかったかが問題です。
答えとしては昔からそんな感情を持たない血の通わない人間のようになっては真の仏道ではないのだとか・・・娘の心をくむこともなく自分の修行一辺倒で仏教で大事にすべき思いやりや慈悲の心に欠けるからいけないのだとか・・・いろいろ言うらしい。

でも私はそういうのと違うと思うのです。
おばあさんが怒ったのは「うそ」だからでしょうと思う。
本当にもう枯れてしまったような老僧ならいざ知らず、修行中の若い僧侶が女性に抱き着かれて何も心が動かぬわけがない。
それをそのように「うそ」を言うのが勘弁できなかったのではないでしょうか?
「殺生な。勘弁してくれ!」とか言うなら合格だったのかも。
もちろんこれは実話なのかどうかもわからない問答集の話です。
でも何かしら答えはあるのでしょうね。

実際の話だったら「古木倚寒岩、三冬無暖気」でも別に悪くないでしょ。本心はどうあれ修行の邪魔だから。
迎合していたずらにいちゃつくのは娘の心を惑わすから一番まずいでしょ。
修行の邪魔なら、思い切り「おぬしに興味はない。とっとと去るべし!」というのも、それはそれで立派な答えだと思うのです。
むしろ、不届きな婆さんの「悪だくらみ」だと思えばそれも又小気味良いのでは?

私がこの手の僧侶と性にまつわる話で好きなのは一遍上人のお話。
遊行していた時宗の開祖、一遍さんは一時、京都で気の変になった乞食の女性と一緒に寝起きしては托鉢したり、布教したりしていたという。
ある時、その乞食の女が一遍上人に猛烈に情をせまってきた。
断っても制しても収まらない。
そうしたらついに一遍上人は「・・あなたの気持ちはわかった。わかったが…しかし、僧侶である私はそのことを先ず阿弥陀様に断らないといけない。だからその間だけしばらく待ってくれ。」と女性を制したそうです。
それを聞くやたちまち女はドロンと消えて、かわりにそこには大きなキツネがいたそうです。
キツネは「我は神泉苑に歳ふりたる白狐なり。御坊こそは真の聖人なり。」と一遍上人を讃えたといいます。