金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

以心伝心の修行

うちは小さなお寺ですので境内地の掃除といっても大したものはありません。
大体私はどちらかというと適度に雑草とかあった方が好きなんですね。
よく東京の丸の内なんかにある植え込みに雑草一つは得ていないでまん丸く刈った柘植の木が等間隔で並んでいる図なんか、人工的で大嫌いです。
あれなら藪の方がましだわ。
やっぱり私って変?
ということなんですが・・・
その代わり修行の場として小鳥や小動物ルームがあります。
この小鳥や小動物の世話というのがまたとない修行になります。
なぜなら、この生き物の世話というのは、生き物が何を望んでいるか?アンテナを張って考えながらやらないといけないからです。
生き物ですから餌が不足なのか、飲み水が汚れているのか、ゲージが汚れているのか、体調不良なのか・・・と言って、おおむね人間よりは単純なことが主訴ですが、ただし、言葉がないのでそこちらでれを感じ取らないといけない。
相手は何も言わないからね。
これが「以心伝心」のまたとない修行にもなります。
勿論、相手は生き物ですから、うまく感じ取れないと必要なことができないまま、動物や小鳥は死ぬこともあります。
餌を入れる。水を変えるだけでなく、それを飲むか、食べるかそういうとこまで最後の最後まで関心を持って把握しないといけないのです。
だから草抜きや仏器磨きと同じように慣れてきて頭では別なこと考えながらはできない。そんなことしたら必ず失敗します。たとえ練れてきても気は絶対にぬけない。
草抜きや仏器磨きはそれができる。それはそれで意味がある。そうやって単調な繰り返しをしていると一種の瞑想状態になる。脳がリズムを作るんです。
だからそういう意味で草抜き、仏器磨きはいい修行なんですね。
しかし、小鳥や小動物の世話はまた全く違うものが養われる。

昔よく、お世話をして鳥につつかれたりかまれたりする人がいました。彼を仮にAさんとします
方や女性で全然そうならない人がいる。Bさんとしましょうか。
一体なぜなのか?Aさん彼からはBさんが不思議でならないようです。
同じ世話をしているのに鳥や動物にも強いえり好みがあるのかしら?とさえ思う。
でも、私が見ると明らかにやり方が違う。
Aさんはなるほどね、これではつつかれるなと思うやり方をしている。

その違いをひとことでいうとBさんはむかいあっているんですね。
躰だけの作業ではないんです。
Bさんは身も心も口も全て使っている。
三密一致のふるまいになっている。
そうすると鳥や動物も違ってくるんです。感応道交する。
そこで、その部分を教えたらAさんも同じように攻撃されないで無事できました。
拙寺は小鳥や動物の世話ができて一人前。
相手は生き物です。
これで得られるものは仏器磨きや草抜きなんか何回やろうが得られないまた別なものがあります。
それが大事なんですね。
これがそのまま人に相対した時に即役立つ一種のテレパシー開発?になるんです。
「ああ、口に出さないけどこのひとはこいういうこといいたいんだ。」とか
「この人はこう言っているけど本当に心配なのは別なことだな。」
ということはすべてここから来ます。
だから、とりわけうちではプロになる人は小鳥や動物の世話は欠かない修行の一つです。
いっておきます。この話は断るまでもなく一般論ではないですよ。
あくまでうちの寺での話です。
よそはよそのあり方があるでしょう。
こんなんはうちだけと思うけどよそさんのことは知りません。