金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

嫌でもしないといけないのは仕事です


最近、修行してみたい気はあるんですけど修行って大変でしょう?って聞かれました。
あまり。大変じゃない修行というのは知りませんが・・・。
本人がどういう風にしたいか次第です。
でも、修行というならば義務観念でするのは意味ないですね。
なにか軍隊の命令みたいのを悲壮な覚悟でこなそうとするのが修行みたいに思っている人、大きな勘違いです。
ただ、本人がそういうのが好きなだけです。
そういう大変無理難題な課題をやってこそ修行だという感じ。
それでやった感が初めて出るタイプ。
一種のマゾヒズムみたいの。
そういう悲壮な面がないと修行してる気にならないんでしょう。
言っては悪いけどバカみたいです。それだけ。
私の修行時代にもいましたね。
雨が降り出すと庭掃くのが好きな人。土砂降りに傘も差さずこれみよがしに掃く。
私ならさっさとやめて家の中でできる仕事しますね。
雨の庭はいても箒は泥だらけになるし、土はえぐれるし・・・。
私に言わせれば修行の「勘違い病」です。
追いかけまわされて次々とこなすタイプの人もいますね。
それはそれですごいけど。
でも、これやっているといつまでたっても「指示待ち性格」は治りません。
待てと言ったら三日でも四日でもそこに待っている犬みたいのです。
軍隊ならそれでいいんでしょうけどね。
考えることをしない。しろといったからするだけ。
これも修行になりません。
四六時中、大声出して上の人が「早くしろ!」ってやっている道場をみますが・・・それは内容的にたぶん仕事でしょう。修行じゃないよね。

嫌々やるのは必要ないんだというと、「いやだ」と言う顔をしないだけ思いっきり義務感でやる人もいます。
ンセンスです。
他人のためじゃないよ。あんたの修行ですよ・・・。
やならやらない。
やりたくないならしない!
「だって・・・私がこれしないと人が困るからやるんです」という人いますね。
立派な考えですがそれならばそれは「仕事」なのです。
修行じゃない。「しないといけないこと」「必要ですること」は仕事です。お金をもらわなくてもそうです。
だから仕事自体に貴賤はないというけど、どう思ってそれをするかでそこに人間の質は現れるでしょう。
お金をもらわないことはしなくていいと思う人もいます。そうでなくてもすべきことはあるという人もあります。そこはいろいろです。
修行は別。一緒にしないこと。仕事は仕事で嫌でもしないといけないんです。当たり前だよね。
だから、仕事なら別だけど修行は、その人のお尻ひっぱたいてまでやらせても意味ない。
やりたくない?
なら、やらないでいいんじゃないの?
そんなものはいやいやしても修行にならないですよ・・・
とそんなふうに思います。
だからうちの場合は本人まかせです。