金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

お帰りになる聖天様

昨日は亡き師匠の命日です。色々用事がたてこんでしまい、午後4時近くに伺うと同門の法弟も来ており、ひさしぶりの歓談となりました。
そのなかで聖天華水供の話が出ました。
天台では古来十一面供千座、華水供千座というけど、「自行の人なら100座でいいよ。」と亡き師が言っていたと聞きました。
これは初耳です。
でもそういえば華水供100座やって浴油にうつった人もいますね。
それなら千座もやらせなくていい弟子もありましたが…でも結局千座やって聖天様の御祈祷もしているのでそれでよかったのかも・・。
でも寺門繁栄のためだけなら前行100座で充分ということらしい。
なるほどね。

また、本来、聖天様の霊場なのに逆に全然拝まなくなったところは何かとうまくいかないという話も出ました。
罰というよりご加護がなくなったんでしょう。
信仰のない人間はそれを当たり前のことと思っているから失うことになる。
坊さんでも信仰ないですから。現代は。
以前は拝んでいたけど今は拝まない。
それで聖天様の御供養なんかやめてしまって霊園経営とか考えるわけです。
霊園経営が決して悪いわけじゃないけど、聖天様拝むのを辞めるのはまずい。
でも聖天様はもともと七日の祈願なので葬式なんかはいるとブッキングしてしまう。
だから昔は葬式するお寺はできないともいう。
でもお葬式のお寺さんなら私は鎮守としての信仰で月に一座の供養でもいいと思います。それなら可能でしょう。
それをお葬式したら聖天さんのお祈りはできないのを理由に全くしない。
これはいささか違うと思います。
お寺の鎮守の聖天様と祈願対象の聖天様というのはスタンスがまた違いますから、鎮守ならそのへんのご供養でいいはず。
鎮守というなら寺院の活動を守る存在。法事葬儀が中心のお寺なら、それを守護しないといけない。
だから滅罪寺で聖天様があってはいけないなんてことはないのです。
したがって、葬儀をするからと言う理由でまったく拝まないよりは、一座でも拝んだがずっと素晴らしいと思うのです。
大体見ていると鎮守様のないお寺はいろいろ・・・あるようです。
思うに鎮守様は大事です。
聖天様でなくても、稲荷様でも弁天様でも神祇でもなんか鎮守様はあった方がいいように思います。
それは聖天様やお稲荷様で祈って大きくなった会社なんかも同じです。
信仰やめて急落する。
聖天信仰なんかばかばかしいというなら、聖天様がもう帰りますということで手を引かれた結果と思う。
昔は聖天信仰は継承されていったけど今の時代は難しい。
信じる信じないは勝手ですから。
「先代の社長はなんかやっていたけど、私は関係ないね。そんな迷信は。」ということで二代目から信仰をやめる。
でもそういうところから聖天様もお帰りになるのは勝手です。
それで滅ぶというのもまたいたしかたなしと思いますね。