金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ビナヤキャ行者

知っているある聖天行者が大きな間違いをしでかしました。
彼は僧籍も含めそのすべてを失うでしょうがこれは自業自得です。
大変残念ではありますが…実に愚かで怒るよりあきれるとしかいえない振舞です。
唯一喜ぶべきはこの人に養うべき妻子がなかったことです。
もう、同じ世界の道は歩むのは無理と思うからです。

聖天さんは怖い神様といいますが、悪魔ではないのにやたら怖がる必要はないですね。
でも、以前にも言いましたが聖天行者に限らず、とりわけ天部の行者は本尊には弟子になって仕えなくてはいけない、そして逆に化他行をするときは本尊は行者の弟子となって働いていただくのです。
ところがそうではなく行者が欲望のために尊天を利用するとき必ず大きな怒りを身に受けることとなります。
日頃から行者は常に尊天の声なき声を心のうちに聞くように、すべてを進めていく必要があります。

尊天の徳を傷つける不正なことは目的がどんなに望ましい善事であろうがすべて否定されます。それがたとえ聖天様のためのお寺を建立するというようなことであっても、まったく同じです。

それがわからなくなったとき行者の最後が来るのです。
大きな力を持つものほど過ちは許されぬもの。なぜならその過ちもまたとても大きなものになるからです。


私は若いうちから信徒総代の林先生に「聖天信仰は危ないですよ。よほど注意しないといけないよ。」と常々いわれてきました。
そして事実、40年近い年月の間に何人もの聖天行者や聖天信者が消えていくのを見てきました。
それはすべて増上慢や自己過信からです。
だから皮肉なことにあれほどご利益を受けていた人が…とかあれほど優れた行者さんが…・という人ほど、意外とそういうことになります。
正しい在り方はご利益や不思議を体験するほどに恐懼して慎むべきなのです。
それが真逆にご利益を頂いたり、通力を得たことで神力自在の聖天様が自分の後ろに控えているということを確信すると、今度は自分を無制限に許してしまう。これは実に恐ろしいことです。
こういう人は本当の意味で下品なのだと思う。
そういう人をマックスと思うような状態から一転奈落の底に突き落とすのが聖天様です。
ところが世上の栄華を目当てに法を求めるものがいます。要はやりたい放題したいので聖天に頼る。甚だしくは僧侶が自分の栄耀栄華のためにその法を求める。
もしそのように思ってこの法を求めるなら、その人はまさに毒をあおろうとするに等しいのです。

荼吉尼天も同様です。野原で荼枳尼の化身である不思議な女性に出会った平清盛が一時の栄を得るには荼吉尼天法に如かず、しかれども一代の福に限るというので躊躇しながらも荼吉尼天を信仰しようとする場面が平家物語にありますね。
この描写から多くの人は荼吉尼天は一時の栄をもたらすが跡がよくないと思っているでしょう。
全然違うのです。
代々稲荷(荼吉尼天尊)の加護のあつい名家はいくらでもあります。
これは祈り方の問題なのです
護法神たる荼吉尼天にそのような無理な野望をかけては末路は良くないと清盛は知っていながら祈願したのです。確信犯です。
要するに荼吉尼天に対して詐欺を仕掛けることを意図したのですね。
聖天さんに毒々しい祈願をするのと一緒です。
しかし、現実にはだまされているのではなく、こういう天尊はギリギリまでなんとかよくならぬかとみてくれています。
だから私の法友の聖天行者は「聖天さんは親切な仏さんだよね。」と常に言います。
騙せるものではないのです。
そしてついに鉄槌が下る日が来るのです。

件の人物も実を言えばほかならぬ私が聖天の法を伝えた人物です。
他でもいかなる伝法を受けたかどうか他宗の人なので知りませんが・・・。
でもどうあれ、貴重な法を授けた責任は、当の私にもあり、恥ずかしながら重々の不徳と思います。
わが師はかかるときのために特別に伝授の三昧耶を破る法を伝えておりました。総許可の反対ですべての伝授を断滅する法です。
これを修することをもってする他はありません。この法によればすべての伝授した法は効験を失うとされております。

謙虚を失う。これが実は終わりの始まりなのです。
とりわけ行者は聖天様には、お布施より大根より御団より、なによりも常に「謙虚」というお供えを絶対忘れてはいけないのです。
生意気になったら「おしまい」がすぐに目の前です。
増上慢になればすぐにビナヤキャ達が喜んでやってくるからです。
尊天は同時に離れます。知らないうちに・・・。
ビナヤキャの喜ぶような心で浴油供養を一万座しようがそれは全く功徳にはならないと思います。
亡き先の長吏様がよく言われたことに「胡坐をかいたらいかん。」というのがありました。
あじわうべきお言葉です。
勿論、この言葉は単純に足を崩すこと自体が悪いというのではなく、常に慎みをもって生きるということ教えだと思います。

また、ある聖天行者の大先輩である大徳は「口を慎まぬ者は聖天の行をしては駄目だ。」といわれました。
何かといえば批判がましく、自分ばかりが利口そうなことを言う行者はとりわけ要注意です。「世知辨聡」という八難所に当たります。
こういう人は利口になるほど慈悲は反比例して薄くなります。
そういう行者さんには近寄らぬ方が無難です。

それは実は聖天行者ならぬビナヤキャ行者かもしれませんから。