拙寺の修行者は大前提はまずもって顕教の修行です。
しかし中には密教をやりたいという人もいます。
先の事件からここにきて振り返り、密教というものはやはり厳密に人を選ぶものだなと思います。
特に「慎みない人間」には絶対授けてはいけないものだと思いますね。
私の師匠は伝法には特に厳しかったですね。
21歳で得度した時に13歳でこの道に入った師匠から「もう、その年でスタートは無理かもね・・・・。あんたは年を取りすぎている。」と言われたし、行院行けば正味1か月で終わることを6年かけてジックリ教えてくれた。正直、修行院へ行けば修行した気分にゃなるけど、帰ってきてそれだけで御祈祷らしい御祈祷するなんてこと自体に無理があるのです。
決して修行院が悪いんじゃない。
でも圧倒的に修得にかける時間とこなす数が足らないんです。
聖天浴油供に至っては18年かけて初めて伝法していただきました。
それ以前に、十一面観音供1000座、聖天華水供1000座が課せられます。
私だって早く一人前になりたかったものです。でもいつも「焦るな!生意気を言ってはならぬ。あんたみたいな小僧にはまだまだ無理だよ。」といわれて修行してきました。
でも、それだからこそ今の自分があります。
振り返る見るに、忍辱、精進が特に大事です。つまり一生の長きにわたって、なにがあっても求道への情熱を暖め続けないといけない世界なのです。
つまるところ「菩提心」です。
だからなんか事情があっても他所からやめて逃げてきたような人はよほどじゃないと成就しないね。何があっても、命がけで頑張るのがいにしえの人の言う修行というもの。
ここへきて、やはり伝法のあり方も変えていかないといけない・・・と思います。これは私の反省です。
いままでは、なるべく修行したいといってくる人には、こちらもなるべく教えてあげたいという気持ちでした。
しかし、そうはいってもまた世間に害毒を流すような人間が出ては大変です。
密教にはそういう劇薬的な部分があります。
そうでなくても法を軽く扱う人に下手に伝授をすれば法を辱めてしまうことになります。
これらは越三昧耶の最たるものです。
密教修行では一番不適格なのは慎みなく、相手も場所柄もわきまえずに感情を爆発させたりする人間です。
そういう人には絶対に授けられないですね、些細なことで臆面もなく泣いたり、怒ったりする人間も駄目ですね。
てんで、話にもなりません。
そういう甘えは自らが踏みにじらないと修行などありえません。
そしてそいつは自分で踏みにじっていただく以外ない。
私、そんなこと憎まれてでもするほどお人よしじゃないんで。
第一これは真実、たとえ師匠でも他人にはできません。うながすのがせいぜい。
だから、たとえ根が悪い人間でないとわかっていても、無類の善人であったとしても慎みやこらえ性がない人物はそれだけで不適格なのです。
ブチ切れたらすぐに刀を抜くような人間に刃物は無用です。
また、礼儀を知らないものも同様です。
見る人が見れば笑うような礼儀もない人物を世間に修行者だと言って到底出せません。
事と次第によってには、当人は勿論、一門の人や私はおろかひいては宗派までが笑われます。
そういうのを放置しながら、ただただお経の読み方だの、声明だの、やれ山修行だの、伝授だのとやっていけば、ただの習い事やレクリエーションの会になってしまうのが関の山で、それは実際は修行などとは程遠いものに堕してしまうのです。仏道の冒涜以外の何物でもない。
わが師は常に言いました。「あんた、何を待っているんだか知らないけど、教えることなんかひとつもない。自分で掴むほかないよ。」と。
仏道修行はみんなで楽しくワイワイやるお遊戯のようなもんじゃ無いんです。
何よりも「六波羅蜜」がしっかりないといけません。
布施の施す奉仕、慈愛の心、戒律を守る真摯で噓のない心、
それに加えて今言った忍辱、精進がきちんとあって初めて禅定が許される。
密教の行法もこの禅定と同じです。
そこまで言って初めて許されるもの。
人はよほど依然と変わらない限りは、一度でも修行者にあるまじき態度を呈示した人間に対する評価は変わらないものです。
勿論、私の持つ人物評価もまったく同じです。
でも誰の人間観でもそれはそういうものでしょう。
極端な話が悪事をして捕まる。
そういう経歴があれば、なんとか詫びたり、罪滅ぼしを考えたり、なんとしても自分の名誉を回復しようと精進努力するという人もいます。
でも、もう一方で世間が忘れたり、周囲や相手が忘れて勘弁してくれるのを漫然と待っているだけの人もいるよね。
そういう愚かな人は自分がなんとかして良い人間に変わったことを示して名誉回復をしなくては・・・というようなことを少しも考えません。
仏道修行ではこんな人間は問題外の人間です。
この考えは悪事を行っても懲役や罰金の支払いが終われば、禊は終わって世間一般の人ともうまったく同じなんだという人ですね。
それ以上のことは考えない。
此れじゃダメだ。
伝授の表白に「人を選び、器を選び、これを許しこれを授く・・」とある通りですね。
でも、もう、軍隊みたいにうるさく文句言ってお尻ひっぱたいてまで新兵教育みたいのまでする気は今の私には全然ないのです。
私が叱責するのは見込みのありそうな人だけにしようと思うのです。
道心なき者を叱責したところで逆恨みされるくらいが関の山ですから。
怠け者でさして利口でもないこの私がなんとかできたくらいだから誰でもできるだろうと本気で思っていましたが…そうでもないようです。
修行なんでしょうよ!
師匠が弟子の顔色見ながら「こういったら、この人いったいどう思うかな?」なんて恐る恐る作り笑顔で指導するなどということはあってはならないと思います。
そういう意味では密教を希望するといっても、本当にやれそうな人だけにはかなり厳しくいきます。いうだけでそうでない人はいつまでたっても、「あ、そうなの」でどこまでも優しく接してお客様扱いせざるをえない。
わかりますか?
いわば何日も時間かけてじっくりグツグツ煮込むお料理が密教なんです。
ファストフードの様な密教なんてのはありえないんです。
「修行するのは何年位かかって、いくらかければいいんですか?」とき
いた人がいますが、 修行は一生、お金いくらかかるかはわかりません。でも全然お金持ちじゃなくいいんです。その都度、必要なお金はできるものと思うのです。
むしろお金持のほうが修行は難しい。
お金がかえって邪魔になります。
いろんな意味でね。
だからお金持ちの修行者なんてのはなかなか養い難いね。