心理カウンセリングのセミナーで一番最初に習ったのは「人間が一番欲しいものは?」答えは「愛と親密感」
「ウン、なるほどね。そうだわ!」と思う。
だけど、そこのところは仏道修行ではちょっとばかりかたちが違う。
「愛と親密感」は自分が求めるんじゃなく、他者に与えるものになるのです。
「無財の七施」なんていうのもある。
プレゼントはモノとは限らない。無罪の七施とは
一、眼施 慈しみの眼、で人に接すること。
二、和顔施 柔和な顔つきをもって人に対することである。
三、愛語施 思いやりのこもった態度と言葉を使い、人を励ましたり、慰めること。
四、身施 身をもって奉仕すること。模範的な行動をとり、身をもっての布施を実践することである。
五、心施 周囲に心を配り、共に喜び、ともに悲しむ同悲の心
六、壮座施 座席を譲ることである。疲れている人を思いやる心。
七、房舎施 雨や風をしのぐ所を与えること。四国遍路の善根宿のようなものもこれ。
同じ「愛と親密感」でも布施による「愛と親密感」です。
これが仏道スタイルの「愛と親密感」。
世の中には得度をしても「愛と親密感」を与えるんじゃなく、欲しくて仏道に入ってくる人がいる。
敢えて言うと女性に多い様に思う。
別に女性は駄目という意味じゃないですよ。
うちは幸いそういう人はいないと思うけど・・・。
確かに仏様は慈悲の極みのような観念ですが、そこにより近づくなら愛が得られると誤解する。
それで得度?
ウ~ン・・・もちろん得られますけど、それを理解するのは普通の世間の「愛と親密感」の観念の枠ではとらえれないものです。
「愛と親密感」ってもらおうとするより与える方が大変?
全然そんなことないですね。
事実は逆。
それ盲点です。
仏教では「見返り」は関係ないからお気楽なんですね。
たとえば、相手があなたの「愛と親密感」を受け取らなくても別に傷つく必要ないんです。「いらない?あ、そう。それはどうも失礼。」
先ほど紹介した無財の七施だっておんなじ。お座りくださいと座席を譲ってもいらないという人もいる。
いらないものはいらないんでしょ。それだけ。
受け取りたくない人は受け取らないだろうし、受け取る人もいるだろうし、何事もあなた任せの年の暮れってなもの。
別にお昼の30分物の恋愛ドラマみたいに愛に命なんかかけて心中したりなくていいんですね。
どなたさまもご自由にお取りください程度のサービスなので。
そこには好きも嫌いも関係なし。
歩いて四国遍路行くとそれがよくわかる。
四国は不思議の国。あちらに渡ればすぐに弘法大師に逢えるよ。
師匠にそういわれていきました。
「弘法さんに逢っておいで」それが課題でした。
基本的に一人とぼとぼ千四百キロの道を歩く。でも「同行二人」です。
弘法さまと二人。人の情けが身に染みるようなこともいっぱいある。
だから出会う人も弘法様です。一期一会です。
そして行中あった人との縁はそこに置いてきて決して引きずらないのがお遍路のルールです。
それを「あれからね。メールで始終やり取りしてます。」なんてのは少々違うんですね。あなたは友達作りに行ったの?さみしさの穴を埋めに行ったの?
別にいいでしょう。それも。
でも、観光バスでワイワイやって霊場巡り、「あんた飴食べる?」なんて楽しくやってきて「四国で修行してきたの」と思っている人いないですかね。
それ自体はそれでいいんです。全然悪くない。でもそれ修行では全くないですよ。
もちろんそうでないセミナーをしている団体もあるだろうけど、世間出世間の区別がない。悪い意味で。
そんなもの他人が与えてくれるものですか?
詞に踊らされているだけでしょう。
そういう人ってテレビのショッピング番組で破産するほどもの買っちゃうかもね。詞に弱い。そこにあらゆる希望を盛り込んでしまいます。
例えば「お得です」というと、もう何が何だかわからにけど「お得」と思い込んでしまう。自分で勝手に肯定的な部分を探して結び付けていくという作業が脳内で起こる。
これって大変危険なパターンです。
実際ドラッグからみの疑似宗教は海外には多いようだし。
修行は「同行二人」の世界。もう一人はご本尊です。
此れは行をするものの大前提。
この同行二人は孤独にならないとわからない部分が多い。だって見回せば常に周りに人がいてワイワイやっていては見えない道ずれさんの存在なんかわかりゃしないからね。みんなで楽しくやる修行なんてのはないと思っている。
お祀りのお手伝いなんかはあり難いし、必要だけど、でもそれは本質的な意味の修行では無いよね。
孤になって初めてわかることがある。
だから「愛と親密感」が欲しくて得度、「幸せになりたいから」得度なんて全く真逆の道です。
あなた、一人が怖いですか?
孤独が嫌ならこの道はすぐに引き返しなさい。
皆でワイワイやっていたいのならすぐに戻ることです。
貴方の行こうとする先には荒涼たる原野がどこまでも広がっているんですよ。
しかも、その先にいつか「幸せの都」があって、艱難辛苦の末にはいつか、きっとたどりつけるなんてことは決してないんです。
これがわからない人はたとえどんな凄まじい行をしてもわからない。
だから火の出るような凄まじい修行をしながらも、もうさみしくて、さみしくて酒に、そして色ごとに浸る人もいますね。
だいぶ前だけど得度したという女性。お話を伺ったら、得度の目的は先祖に色情因縁があってよくないので結婚できない。だから得度して、修行するんだと言われました。そうすれば結婚できるとその方のお師匠様が勧めたそうですが…
どこの世界に尼僧になって結婚目指す人がいるんだろう?
行をしてわかること。
最後にわかることがあるとするならその荒野を行かせてもらったこと自体が幸せとわかる。この荒野こそが実は自らの都だとわかる。それだけです。
これは家族がいてもいなくても、妻帯していようがいまいが、子供がいようがいまいが同じです。
それを今理解せよとは言いませんが・・・。
でも、荒野を目に見えない道連れさんといっしょに歩いていく気ありますか?
その道筋での人との出会いは基本的に一期一会、出会いを尊び、そしてあえて心をかけず、笑顔で会釈して先を行く…
「私、修行したいんです。得度したいんです。」というあなた。
出世間の行はそういう世界です。
其れでも行きますか?
行けそうですか?
井上陽水さんの「夢の中へ」の歌じゃないけど、・・・あなたとは踊りません。タンスの中にもカバンの中にもなくたって探し物をどこまでも続けますというブスイな世界です。
この話がショックだった方は得度などやめた方がいいと思います。 .