金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

御祈祷は意志の力ではない。

御祈祷の力はどこから来るのか?
世間の見方だとそれは意志の力みたいに、つまり「念力」と思っている人多いですね。
そういうのを当てにする方が時々見えます。
「とんでもない。私は念力なんてないですよ。ただの凡人ですから。」というと怪訝な顔する。念力なくしては御祈祷は効かないと思っておられるのでしょうね。
「意志堅固」だと意志強く祈祷が効く?
勿論、修行には不退転の心がなければいけない。「大勇猛心」という。
勇猛心はビジョンがしっかりないと保てない。
聖道門なら悟るんだとか、浄土系なら極楽に往生するのだということですね。
そういうのは絵空事だと考えていては勇猛心などはでてきません。
悟るといってもお釈迦様みたいにはいかないでしょうが、仏により近づくということをこころしないと仏道修行は意味ない。
それは意志の力です。そして修行のお話です。
でも御祈祷は少し違う。
必ずしも歯を食いしばって祈るとかは必要ないことです。
ただし力みはいらないけど慎重さや精密さは必要です。
技の道は皆、最後はここに行く。御祈祷も技術という面でとらえればそう。

密教なら「三密の理」を信じる。
プロセスへの信頼、「法」への信頼、信仰が大事です。
これは他の宗教の祈願においても同じでしょう。方法論への信頼、信仰です。
そして意志以上に「伝える力」です。誰に?
決まっているじゃないですか。
勿論本尊様です。
だから力むことはいらないけど、シッカリ伝えることは大事です。
真剣というのはもちろん大切ですが、歯を食いしばって念凝らして祈れば叶うなら、行者より当の祈願者の方がより切実で真剣ですから御祈祷を頼まなくたっていいはずです。
「方法論」があるから叶うんです。走るには歯を食いしばってより速く走り
ますが、自動車に乗ったら歯を食いしばって・・・いらないでしょう。集中すべきところが変わる。
行者さんというと怖い顔で鬼か鐘馗様みたいのがいいというイメージがある。迫力はある意味、あった方がいいはいい。
でもそれは宣伝効果上のことです。
理由は簡単です.カッコいいから。
それだけです。
「そういう怖い顔の行者なんてものはまだ未熟なんだ」と師匠も言っていた。私もそんな行者がいいものだと思っていたけど、そのあとも同じことを何人もの先達から聞いて私は最初不思議でした。
それはかなり、後になって理解できた。
方法論が違う。
 
ただ、それはあくまでも未熟なのであって、そこでとまらなきゃ必ずしもダメではないのですね。むしろ、そこは通過しないといけない
それがないとなかなかなか先には行かれない。水泳もバタバタやっているうち力抜けば浮くことがわかる。一番最初はバタバタは当たり
前でしょう。
最初から何も知らず脱力できる人は才能家だけです。
だからはじめの修行はそれでいいと思うし、それも必要です。
怖い顔でやっていてもいい。はじめはね。

だからこそ最初から満足な御祈祷はできません。
いつまでも歯を食いしばる修行だけでやり通すと確かにある種の念力が体得できます。それでやっている行者もいる。
奇跡的なことを鮮やかに起こせるのは確かにこの念力系統の方が多いようです。念力型でなくてそういうことができるのは私の知っている中では大体一人か二人かな。 .
そういう念力行者はどこまでも苦行と一体ですから、晩年でも苦行がやめられない。一生やっている。それがまた周囲から見れば実際、貴くもあるのですが・・・。
でもそれをやめると充電が落ちてきて終いには擦り切れるのだと教えられてきました。
「行者の末路は良くない。」いろいろな意味でそう言われるもはそのためだと聞きました。

でも修行が進むにつれ、仏道ならそこには「放下」が生まれないといけないでしょう。執心を離れる修行です。其れこそが仏道修行の目的ですから。
世間で期待する念力は執心の極みみたいなもの。
その執心の極みみたいなことで、祈願がかなうというなら仏法とは逆方向になってしまいます。